グレタ氏と原発
脱原発について議論するときに、CO2がどうとか、再生可能エネルギーがどうとか、コストがどうとかいう議論が延々と繰り広げられることがありますが、正直無駄だと思います。
脱原発という観点で言えば、本質的ではない(と思う)からです。
思考停止を強要するようで嫌なのですが、世の中で普及しているものには、普及するに足る理由があります。
その理由に対して、どんぐりの背比べをいくらしても、やめる理由にはなり得ません。
東日本大震災の発生前から、チェルノブイリやスリーマイルやJCOの事故に代表されるように、苛烈な原子力事故は存在していました。
当時は、炉の種類が違うとか手順を逸脱したことが問題だという論調が強く、日本の原子力政策を抜本的に見直す流れは起こりませんでした。
やる理由に対して、やらない理由が弱かったのです。
あんなに酷いことが起こったにも関わらず。
そして福島第一原発の事故が起こりました。
私は普通に、脱原発となるのだろうと思いました。
でも、そうなりませんでした。
やる理由に対して、やらない理由が弱かったのです。
あんなに酷いことが起こったにも関わらず。
非常に確率は低いですが、飛行機は墜落することがあります。
でも、多くの人は飛行機に乗ります。
それは、墜落のリスクを許容しているからです。
「そんなつもりで乗っていないよ」とおっしゃる方もいるかと思いますが、それも許容なのだと思います。
リスクは、それが起こったときの影響とそれが起こる確率で評価されますが、影響が甚大である場合、確率が低いからといって許容されない場合があります。
違う実例で考えてみたいと思います。
むかし、イタリアのある農薬工場が爆発しました。
そして、周辺にダイオキシンが大量に放出され、高汚染地区は居住禁止となりました。
これは本当にあった話です。
この事故の原因は、手順の逸脱、そして異常時に働くシステムの設計ミスです。
人間が運転し、人間が設計する以上、当たり前に起こり得ることです。
これを教訓に化学工場の安全規制も定められ、今ではこのようなことが発生する確率は非常に低くなっています。
「発生しない」のではなく「発生する確率が非常に低い」のです。
世の中にこのような事例はごまんとあります。
こういう話をすると、「ダイオキシンと放射能を比べるな」とか「不安を煽るな」とか言う方もいらっしゃいますが、そんなことを言いたいわけではないのです。
要は、リスクを許容できるかということなのです。
たとえ建屋が吹き飛ぼうが放射能が放出されようが汚染水やデブリの処理が難しかろうが、そのリスクを許容できるのなら付き合い続ければいいんだと思います。
ただ私は、そのリスクとは付き合い続けたくありません。
代替手段はいくらでもあります。
経済性を言う人がいますが、何万年も放射性廃棄物を管理するコストが発生する以上、今コストが低かったとしても、未来にコストをぶん投げているだけなのです。
事故が起こった時のことは言うまでもありません。
今現在日本において、高レベル放射性廃棄物の最終処分場はありません。
しかもこれを数万年単位で保管しなければなりません。
天変地異もさることながら、数万年管理組織を維持する必要があるのです。
過去に数万年続いた国家はないのですから、途方もない時間であることは明確ですよね。
もしグレタさんの発言の影響で原発が続くのだとしたら、世の中は事の本質をはき違えています(意図的にはき違えている人たちもいるのかもしれませんが)。
グレタさんの言葉を借りれば、「私たちや私たちの子供の世代に任せっきり」ということが問題なのです。