自分のためにやらない。教師も親も。
自動車で有名なスズキの経営トップを務めた鈴木修さんが後継者の資質について述べた文。
教育においても言えることだと思う。
「自分のため」に動く教師
”教師である自分のために”を考えた瞬間、子どもたちが対象物のようになってしまう。自分のすごさを見せつけ、自分の承認欲求を満たすための行動になってしまう。
そんな教師がSNS界隈で叩かれている。
「不登校を出していない」
「クラス平均90点」
「体育祭優勝」
それらは、教師の手柄ではない。
もちろん、教師の働きかけの結果であることもあるだろう。
しかしそれを教師自身が「すべては自分の力だ」と勘違いしてしまったら、色々歯車が狂うのだろうな。
「子どものため」を思っておこした行動が、
「自分の承認欲求を満たすため」の行動に成り下がり、
目の前の子どもは自分のすごさを証明するための”モノ”のようなものにしてしまうのかもしれない。
それらの教師の弊害は、
子どもを型に押し込めようとすることからくる子ども自身の息苦しさや、子どもが自分の理想通りにならないことによる教師自身の苛立ち、があるだろう。
ある意味そうなってしまった教師自身が一番かわいそうだ。
目の前の子どもをすべて理想通りにするなんて不可能であるのに、それを求める。その矛盾からくるストレスはすごそうだ。
ただ、ここでもう1つ難しいのは、
「どこまで教師の"願い"を伝えるか」だと思う。
子どもが一人ひとり違うのはそうだけれど、共通項になる目指したい方向はあるわけで。(教育)
まあ、スタンスの問題か。
話少しズレたな。
「自分のため」が悪なのか
「なんのため、だれのためにやるのか。」その使いわけが大切。
別に「自分のため」を否定する訳では無いし、「自分のため」にやってたことがたまたま「人のため」になったら最高だろう。その逆も然り。
この「自分のために」「人のために」が狂い出すきっかけは何なんだろう。
授業は、「目の前の子どもたちのために」する。
日々のボディメイクは「自分のため」にする。
うーん。わからんけど、
教育においては、自分のために「相手をコントロールしようとする」が生まれたら狂い出すことが1つ挙げられるのかな。
コントロールと教育の違いは、きっと目的の違い。前者は自分のためであり、後者は相手のため。
とすると、
徹底的に「相手(目の前の子ども)のため」を考え抜くのが教育であり、そこに「自分(教師)のため」(承認欲求/認められたい)が混じってないかを疑い続けることが大切なのかもな。
とかいいつつ、
「自分のため」の正義感も拭えない。
「自分のため」を細分化すればいいのか。
「自分のため」は、きっと「他者を意識した自分のため」と「自分だけの自分のため」があるのだろう。
とすると、「他者からの承認欲求」というのは本当に厄介なものなのかもしれないな。
それを求めないためには、
自分で自分自身を満たすこと、が大切なのだろうか。
そして嫌われる勇気。
うーん。まあ一旦飽きたのでここまで。
まず、自分で自分を満たすこと。
現時点での結論としては、
自分で自分を満たせるようになろう、ということ。
きっとそれが、すべての土台な気がする。
自分で自分を満たせているからこそ、私心を捨てることができるのかもしれない。
つまり私心とは承認欲求のことなのだろうか。
「自分のために」という言葉の背景にはそれがあるのかもしれないな。
ぶっちゃけ「承認欲求」よくわかってない。
「承認欲求」おもしろいな。もっと知りたい。
こんだけ「承認欲求」って何回も叫んでいながら、正直ちゃんとはわかっていない自分がいる(焦)
別に完全に悪というわけでもないのだろうな。きっと。
そしてなんなら自分はきっと承認欲求強いしな。
実習の授業やプレゼンでも「自分の見られ方」を気にして、目の前の子どもや本当に伝えたいこと、をおざなりにしてしまっていた過去がある。
矢印が相手ではなく完全に自分に向いていたのよな。
まあそれはそれでメリットもあるのだろうが。
今は認識できるようになってきたし、それらが本末転倒だなと気づけたのでだいぶよし。
教師として子どもたちと関わる前に気づけてまだよかった。
きっとそのまま教師になっていたら自分も子どももだいぶ苦しかっただろう。
これからもわすれないようにしよう。
わからん。これが正しいかもわからんけどな。
最後に
こじらせ22歳。まだまだわからんことばかり。
まあ、思考を止めなければおっけーだ。
”まあいっか”の開き直りも残しつつ、考え続けよう。
最後まで読んでくださりありがとうございました。