【母が亡くなった夜】に書いたメモ
昨夜、22時前。母が亡くなりました。
冷たくなった身体を、熱いお湯で絞ったタオルで拭かせてもらい
いつか一緒に帰れる日を祈り、イメージをしながら洗濯して綺麗に畳んでおいた洋服を、一度部屋に取りに行って
病院に戻って看護師さんと一緒に着せて
最後に薄くお化粧もさせてもらいました。
初めて私がお化粧した母は、肌がすごく綺麗で
本当に美人さんだった。
ほとんど寝られなかったけど
今書き始めてみよう、と思いました。
母を亡くした日は「今日」だけ。
すぐだからこそ、書いてみます。
その「今日」にしか綴れない言葉がきっとあります。
ものすごく沢山の心の気付きを、今ここでシェアします。
今も動悸がしているくらい、まだまだ動揺しているけど
私にとって書くことは、自分の気持ちを整理しながら、しっかりと自身で認識する作業。
そして、読んでくれる方に、何かを感じてもらいたい。
こんな時にも書いているんだから、きっと一生書ける。
それが、きっと夢を叶える為の一番の強みだと信じます。
母のお陰で気付いたことのひとつは、私は言葉を綴って人に伝えるのが好きということ。
母が作ってくれたこの大切で大事な時間に、やりたい事、続けられる事を見つける事ができました。
どこまでいっても親は、体を張って子供に大切なことを教えてくれる人なんだと知った。
きっと私も、子供たちにそうしていくんだろうなと、心の隅で感じています。
母の最期の日
母は昨日、20日間入ったICUから一般病棟へ上がれたところでした。
「10分程なら面会できます」と言われ
手術前後の1、2分間程度を除けば、3週間ぶりの母に会う為、18時半頃病院へ行きました。
緊急手術の際に低酸素脳症を起こしている可能性があり、意識がどこまで戻ってくるかもまだ分からず
病状は最善ではなかったものの、ICUから一般病棟へ上がれたというのは少し安心感がありました。
最初は眠っているのか目を開けない母でしたが、しばらくすると呼びかけに反応し、パチっと目が開き、目が合いました。
どこか合い切っていない気もするものの
あぁきっと、私(娘)のことは、認識してるなぁ
と感じました。
それから少しウトウトとしても、孫たちの一生懸命呼びかける動画を流すとぱっちり目を開け、しっかりその方向を見ている。
可愛い声のボイスメモも、耳元で流すと目を開けしっかり聴いている。
看護師さんに許可をもらって関東の兄たちとテレビ電話を繋ぐと、ところどころしっかりと、話しかける兄の映る画面を見つめる母。
あぁ、やっぱり、私たちの事は分かっているなぁと思いました。
前日に気管切開をして声は発せないので、目の動きや身体の動き、表情などでなるべく母の気持ちを読み取ろうとしていました。
しばらくすると苦しそうな顔でもぞもぞと動くので、看護師さんを呼んで喉から痰の吸入をしてもらいました。
その時は本当に本当に辛そうで(痛いんだろうな、苦しいんだろうな涙)
見ている私が貧血のようになってしまって
しばらく部屋の外に出て深呼吸していました。
母は今、きっと一番つらいところにいる。と感じました。
倒れてからの3週間。
2度も手術を重ねることになってしまった母の、辛そうな姿を見る度に
この延命治療は「どんな形でも良いから生きていて欲しい」という私や家族のエゴなんじゃないか。
母の辛そうな顔を見るたびに
「私はあの時、肉体を離れた方が楽だったのに」と思っているかのように見えました。
この20日間、すごくすごく落ち込んで
一日中涙が止まらない日もありました。
でも、ある尊敬するお友達が毎晩会いに来て、背中をさすってくれながら
『どこまでいっても「私がどうしたいか」だと思う。今はお母さんの未来を預かっている身。罪悪感も、エゴだとも絶対思わなくていい!だって、生きて欲しいんだもん!それで良いよ!』
とドーンと背中を押してもらい
本当に救われました。
※※※
ここまでは母が亡くなった当日に、一晩夜を明かした家族用控え室で綴ったこと。
でもやっぱりつらくてつらくて涙が溢れて溢れて
ここまでしか書けなかった。
今日は母が亡くなってからちょうど三週間。
母が緊急搬送されてICUに居た三週間に比べると、信じられないくらい早く過ぎたように感じます。
正直、ゆっくり悲しめる時間は当日くらいしかなくて、関東にいる兄たちと今後どうするかなど火葬や葬儀の相談をしたり
石垣島でお留守番してもらっていた旦那さんと子供3人の飛行機チケットを取ったり
バタバタバターっと過ぎていったけど
どんなに多くても、実の親が亡くなる事は誰しも2回までの経験なので
親が亡くなったときはこんな風な流れになるよ!っという
参考noteは、いつかまとめたいと思います。(笑)
(ご両親がまだまだ元気な方ほど宜しければご参考に!生前にいろいろ準備しておいたほうが良い、大事なこといっぱいあります。)
母の最期の2時間
さて母が亡くなった日の話に戻します。(自分の記録的にも残しておきます。)
三週間ぶりに叶った一時間ほどの面会では、辛そうな姿が多かった母。
顔をゆがめて体を少し仰け反らせたり、足を何度も動かしたりと、とにかく辛そうに見えました。
だから寝ているときはなるべく起こしたくなくて、看護師さんに「また明日出直したほうが良いでしょうか」と声を掛けましたが、
「いやまだ夕方だし、夜は長いから起こしてもらっていいですよー」と母に声をかけて起こしてくれたりしました。
目を開けると、やっぱり辛そうな母。
でも孫の声や私の声、兄たちの声が聞こえている間だけは表情も戻り
聞いている素振りや、反応をしているのが分かるのです。
だけど辛そうになると私も辛いし心配になるので、看護師さんにも聞いてみたりしましたが
「なんでしょうねーこわい夢でも見てるのかな?」と言われ
ええーそうなのかなー?!なんて思いながら、今日は帰ろう。と最後に声を掛けました。
1分ほど、孫たちの名前を出したり、みんな待ってるよーと話をして
じゃあ今日は一旦帰るけど、と続けて
「お母さん、今は本当につらいと思うけど、信じてるからね。お母さん絶対元気になるって。お願いしますねー」としっかりと聞こえるよう大きめな声で言うと
それまでじーっと向こう側を向いて目を開けて聞いていた風の母が
少しだけ顔をこちらに向けて、こくっと頷きました。
家族にも様子を見せるためにムービーを撮りながら話していたので、動画にも残っています。
今見返しても、あれは母のしっかりとした意思表示だったように見えます。
意識がしっかりと戻っているのか分からなかった母に「きっと伝わっていた」と思える証拠です。
でもその「わかった」は、どこか諦めも混じった「はいはい。出来ればね」というニュアンスが、娘の私からは取って見えない事もなかったです。
不思議なもので
私も親から生まれて抱っこされて大きくなって
きっと沢山、「いい子いい子」と頭をなでられてここまで育ってきたと思いますが
そんな親が年老いて弱った時に、今度は娘の私が「いい子いい子」と頭を撫でてしまうものなんだなぁと
その時こくっと頷いたように見えた母の頭を「つらいだろうけど、待ってるからね」となでなでしました。
緊急搬送されて、まだ意識があって話せた母にも「今は寝てなね」と頭をなでなで。
なんだかこどもを見ているような気持ちに近い、不思議な感覚でした。
やっぱり人間は段々赤ちゃんに戻っていく生き物なのかなぁ。
でもそれが、生きている母との最後の触れ合いになりました。
別れ
「明日も来て良いですか?」と看護師さんに頼むと
(制限がかかる中で特別に許された面会だったので)
長い時間でなければいいですよと許してもらえました。
「あとで新しいボイスメモを孫たちに送ってもらって、明日も早い時間から面会に行こう」
と、下の売店で大人用のおむつと新しいパッドを買い足して、病室に置きに戻り
やっぱり少し辛そうな母を横目に、母ちゃん、今は頑張れ!と祈りながら宿泊場所に戻りました。
一日ほとんど何も食べていなかったので、玄米ビーフンにお湯を入れて座布団に座った瞬間「病院」からの着信が。
この三週間ずっとこの着信表示を見るたびドキッとして、電話を取った時、相手の看護師さんのゆっくりと落ち着いた声を聴いて
「あぁよかった、緊急じゃない」
と胸をなでおろしたことが何度もありましたが
その時は、ICUの師長さんの
聴き慣れた優しい声ではなく
低くて暗い、早口で緊迫した声でした
「田中さん、お母さん急変してます。今すぐ病院に来られますか」
(えっ今さっきまで、一緒にいたのに...)
と思いましたが
『はい、今すぐ行きます。』
ほんの小一時間前に会った母の急変の知らせに少し戸惑いながらも、なるべく落ち着いて答え
とっさに、今日は戻れないかもしれないから
何か必要なものはと周りを見回して、充電器や最低限の着替えをリュックに入れて
大好きな人がくれた、スプリングコートで身を守るように包んで
早足で病院に向かいました。
その間、5分も掛かりませんでしたが
「助かって欲しい」とか「お母さん頑張って!」という気持ちよりも、どこか冷静で
『そうか』『そうなんだね』『わかった。』というような気持で、自分を落ち着かせながらつい先ほどまで居た病棟へ急ぎました。
母が倒れてから、ゆっくりと一人であらゆる想像や想定、経験をして
『なにがどうなっても受け入れる』
『その事実をどう感じていくのかは全て自分次第』
と、深く深く落とし込める時間があったのだと思います。
病棟に着くと看護師さんたちが10人くらい深刻そうな面持ちで母の病室に集まっていて
そのうちの一人に、たった2分前くらいにICUに移動した事を教えていただき、ICUまで連れて行ってもらいました。
ICUに着くと師長さんに急ぎ足で迎えられ
ICUの隣にある面談室にて一度座るよう言われました。
いつも優しい師長さんが私に寄り添い、絶えず強く背中をさすってくれる。
それが全ての支えでもあり、どこか不安でもありました。
それから1、2分程度経った頃、緊急手術の執刀もしてくださったM先生が面談室へ
少し強面で身体も大柄で、術後説明などもいつもかなり大きな声でする先生で、初めは少しこわい人?と思っていたけど
実はこんな状況で3週間も、私たち親子が面会が出来ない事をいつも気に掛けてくれていました。
この日の面会も、このM先生の計らいで実現したものだったのです。
そんなM先生が、急変した母の処置にも当たってくださっていたのですが
いつものような自信を感じる大きな声ではなく
暗い顔と、途切れるような小さな声で
「田中さんあのね、さっきまでお母さんに会えてましたよね。そのほんの一時間後くらいだったんですけど、おそらく手術した場所とは別のところの“大動脈瘤”が破裂してしまったんじゃないかと思うんです。」
「それでね、今も懸命に処置してはいるんですけど...お母さん、脈も、呼吸も、完全に停止してしまってます。お薬にも全く反応しません」
それを聞いて、あぁ...そうですか。。と答え
じゃあ、ちょっともう、厳しそうですね
と言うとM先生は本当に残念そうな顔で
「そう ですね」
と答えました。
そこで今まで病院ではずーっと我慢してきた涙が
ボロボロと流れて
寂しくて つらくて
顔を歪めて泣きました。
その間も師長さんは絶えず私に寄り添ってくれて
娘を労るような優しさで背中をさすってくれていたのを覚えています。
M先生は、その時おそらく医師の知識と経験から、もう望みがない事は分かっていたと思いますが
「また、お母さんのところに行ってきますね」とICUへ戻って行きました。
寄り添い続けてくれる師長さんに、本当に感謝しか無くて
病院に来るたび来るたびに、看護師さん達や先生たちへの尊敬の念が本当にどんどん生まれた事をその時伝えました。
母のことはどうしようもなく悲しいけれど
どこか客観的に、こんな私のように残された側の人間と、毎日のように向き合って、支えて、サポートするお仕事なんだ。とまさにその時にも感じていました。
私は泣きながら、どこか少し気持ちを切り替え
伝えたかった事を言葉にしました。
『看護師さんって、本当にすごいお仕事ですよね。皆さんここ(病院)では一切気を抜けないような張り詰めた時間とお仕事をこなしていて、いざ家に帰れば“お母さん”だったり“奥さん”だったりするんですよね?そんなまた別の大事な大事な役割もあって。それを両立しながらの生活って、本当に尊敬します!』
と伝えました。
そういえば、母も私の長女に「あなたは優しいから将来看護師さんになったら」と以前言っていた事も思い出し、伝えました。
まさに今、母が亡くなろうとしていて、ボロボロ泣きながら悲しんでいる患者家族に、目の前でそれを伝えられる師長さんも複雑だったかもしれませんが(笑)
師長さんも、泣いていました。
師長さんはいえいえと少し謙遜して、そのあとに
「でもね、私たちは本当に、患者さんが元気になっていくのを見るのが好きで、幸せなんですよ」
と涙を流しながら話してくれました。
だから、田中さんのお母さんも元気になっていくと思っていたから...すごく残念です
と言わんとしてくれているのが、すっと心に伝わってきました。
そのあと、M先生が戻ってきて
やはり、もう救命は難しいです。
というような説明をしてくださって
「お母さんのところへ行きましょう」と先生と師長さんに連れられて母のところへ。
この時、本当ーに行きたくありませんでした。
(実際「えー」って言いました。笑)
ここまで“現実と向き合うのがこわい事”って、中々ないと思います。
母は、まだ違う先生に心臓マッサージをされていましたが、顔が見えると
「あ、もう無理だ」
と一目でわかりました。
父が亡くなった時、初めてしっかりと亡くなった人の顔を見たけど
同じ感じだったので、分かりました。
先生に「もう、大丈夫です。」
と伝え、腕時計を見た先生は死亡時刻を21:43と伝えてくれました。
母の体内から管を通って、血がずーっと外の容器に流れ出ていて
「おそらく背中の方の大動脈瘤が破裂してしまったんだと思う」とその時にも告げられました。
その血が流れる管を見ると、本当に痛々しくて
母の身体からどんどん血が流れ出ていってしまっているまさに今、本当は今すぐに止まって欲しい
母の身体がどんどん冷たくなってしまうから
でも、そんな気持ちと
どこか、あぁこれでもう苦しまなくて済むんだね
という安らかな気持ちと
やはり母の死というのは、本当に本当に複雑だと感じました。
この時にもどこか冷静な部分もあり、これでもう、実の親の死に向き合う事は無いのか。。
と気づいて
この際しっかり状況を把握しておこう、と周りを少し見回したり。
ICUには辛そうな患者さんが何人もベッドに寝ていて
この人たちも、家族も、今きっとすごく不安で辛いだろうな。と胸が痛みました。
母の処置に当たってくださっていた10名ほどのスタッフさん達それぞれの顔を見ると
みんなすごく暗く悲しい顔で母を見つめて立っていましたが
そのうちの一人の若い女性が、目を赤くして静かに涙を流しながら母を見つめていたんです。
それを見てまた私もボロボロボロボロー
やっぱり、本当にすごいお仕事をされている人達だと思いました。
(後で聞くと、その女性は心臓血管外科の先生だそうで、その方もきっと全て手を尽くしてくれて、私なんかには到底わからないような悔しさとか、、色んな感情があるんだろうなぁと感じました。本当に感謝です。)
そのあと師長さんが「もし、田中さんが良ければだけど、一緒にお母さんの身体拭きます?」と聞いてくれたので
少し迷ったけど
「お願いします」と答え
洗濯しておいた母の服を部屋に取りに行って
病院に戻ってから、また別の看護師さんと一緒に冷たくなった母の身体を、熱いお湯の張ってある洗面器で絞って、綺麗に拭きました。
これも入院の為に買ってきたタオルだったりするので、
「また元気に一緒に帰れるかもしれない」と、その日を願ってタオルを選んだりしていたその頃の気持ちを思い出し、泣けてきます。
母の右手を拭いたとき
手術前後、薬などの影響でパンパンにむくんでしまっていた手では無く
いつもの母の手に戻っていて、少しホッとしました。
写真を1枚載せます。私と母の手の写真ですが、脈が止まったあとの人の身体を見たくない方はそっ閉じお願いします☺️
脈が止まってすぐの母は、本当にすごく綺麗で愛おしかったので、記録の意味で残した写真を少しだけ載せていきます。
そして、母の手は、やっぱり世界一優しくて
最近も、私が疲れていると「マッサージしようか?」とうつぶせに寝た背中に乗って、念入りにマッサージをしてくれていた事などがどんどん思い出されて
その手が、この世から無くなってしまうことが、すごくすごく惜しくて寂しい気持ちでした。
(このあと、火葬というまだ向き合いたくない現実があることは分かっていたので)
冷たくなった手を何度も何度も握っていたら
私と母の重ねた手の爪がそっくりで
「やっぱり親子だな〜」と
ふっと嬉しいような悲しいような、耐え難い寂しさを感じました。
その後の色々
このあとの事は
今回のことで私が感じた沢山の気持ちと共に
また次回に書こうと思います
こんなに長い長いnoteにお付き合いいただき、本当にありがとうございました😊
まだ色々な手続きや片付けもあるので、毎日なにかとやることがあり
当面お仕事もできそうにありません。
今回母から学ばせてもらった事から、これまでとは仕事の仕方や考え方を変えて行きたいと思っています。
そのうちの一つはこんなふうに書き続ける事。
どんな形で続いていくかはまだ私にも分かりませんが、とにかく楽しく続けていきたいと思っています😊
もう一つは、本当にやりたい事をやること。
何故か母が亡くなる前よりもハッキリと感じている事は
みんなが健康で幸せに。地球も健康で幸せに。
こんなに最高なこと、ありますか?
それをテーマに今後はブレずに生きていきます。
とにかく死ななければオッケー、と思って(笑)
やりたい事を何かを理由にやらない、諦めることはせずに、やっていきたいと思います。
よろしければサポートも是非、よろしくお願いします✨🙏✨
いつも応援してくださってる皆さま、本当にありがとう‼️‼️
さーて、色々もう一踏ん張り❣️頑張るぞーーー❗️
みなみなさま、本当にご自愛ください。
ご家族、お母さんお父さんを大切に☺️✨
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