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完全な不完全体(無理解でないことによる医学モデル的認識への危険性を終に)

なんかタイトルがようわからん事になっているけど、そこはご愛敬(?)ってことで。


この方の記事の、「不完全性」という言葉になんとなく惹かれて、ワタシも「不完全性」をテーマに記すとする。この人(黒い猫(もあ)さん)の記事も、読んでみてね。(そのためにここに貼ったんだもの。)


ワタシたちは神様じゃないがん?




もうひとりの、心ン中で独り言する時用のもう一人のワタシにそうつぶやく。そうやね。ワタシたちは神様じゃないことは言を俟たないけど、そのことにどうしようもなく耐えられない時もあるんよね。まぁ、マックスコーヒーでも飲んでればきっとすぐ忘れるけど。

なら、完全にはなることなんてありえない。完全になることは不可能。完全になる必要もない。つか完全って一体なんなのだろう。その定義がひどく曖昧模糊だし、というかワタシが知りたい完全の意味は定義みたいなものじゃなくて、ありもしない超越論的価値みたいな、究極の意味なんよね。

でもそれは、結局ニーチェの云う通り、ありもしないものなんやから、散歩しようが、三千世界を渡り歩こうが、この目に入って来ることはありえん。なら、完全を求めること、そうであろうことすることに関して、人間であるワタシはそっぽをむいてリンゴ丸かじりするだけなのだ。そうやって、人間は、人間であること強いられて、労働と生みの苦しみを与えられたんだからって言ってみるのも、ちょっと厨二病というか、我ながらイキっててキモイ。ベストイキリスト。

完全であることはない。そうなる必要は無い。むしろ、「imperfect」の方がいいじゃんね。相変わらず、完ぺきの意味はしらんけど。不完全だから、人間なんでしょ。最初から完全とか、完ぺきだったら、人間は上手い水なんて飲めやしない気がする。疲れて、疲れて、苦しんで、その後に来る快感ってのは、ひどく人間らしい。疲れた後に親が作ってくれた飯の味は、何物にも代えがたい。(働かずに喰う飯うまい)

完全とは、客観ではない。完全な客観性もありえないし、そこから裏付けられるような完全性もありえない。不完全ウェルカム。ワタシはジョジョのカーズではない。(あいつも完全じゃないけど。)

というか、完全に憑りつかれるというか、不完全を容認できないのは、不完全であるワタシには、大敵とまではいかないまでも、積極的に関わるような人間ではない。不完全であることは、全く(少なくともワタシにとって)悪ではない。だって、不完全でしかいられないもの。どう足掻こうが、不完全のままでしかないもの。

「best」という言葉が嫌い。「le plus meilleure」という文言が嫌い。完全を目指すと云う言葉の意味が分からない。完全を目指したら、成長が止まってしまう。もし本当に成長を目指すなら、(仮の目標を設定するにしても)、「better」とかの方がいい気がする。なんだかそっちの方が人間らしいし、その人生に最終的、究極的な意味や意義が無い人間にはぴったりだ。(ワタシの先には、何も無いのだから。)

不完全であれ。完全から目をそらせ。それは人をきっと、苦しめる。不完全、なにかしらの途中であることしか出来ないのだから、それくらいの心意気でいいのだろう。もしあなたが、(矛盾だらけの)全知全能の神とらやなら、ワタシの言葉は全くもって無効であるけれどね。

完全かのように見えるそれは、きっと「自分」の理解できるものではないから、圧倒的な乖離の先に勝手において、自分の不完全性を誇張しているだけだ。不完全性の対比として、「完全」に見えているだけなのだ。その意味で、「完全」とは「無理解」そのものなのだ。「完全」と感じる対象に関して、人間はその対象自身をきっと見つめてはいないのよ。遠くから見ると人の様見えても、間近でみるとなんでもないのと同じように。

けど、その不完全性の容認と、或いは不完全性だからという意識を、障がい者に対する「医学モデル(塙幸枝、2018)」に安易に結びつけるのには、ほいと頭を縦にふることは出来ない。「imperfect」と「impairment」は、同義語ではないのではないか・・・多分ね



今日も大学生は惟っている。


参考文献

塙幸枝.2018.障害をめぐるコミュニケーションを拓く.新曜社


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