ドラマツルギー
社会学のゴフマンのセオリーの中に、
ドラマツルギー(ドラマトゥルギー)というものがある。
私がこの考えを知った時、なんとも人間は苦労する生き物だと思わざるを得なかった。
そしてやはり、その中に「虚構」をも感じるのだ。
相互行為
このドラマツルギーには、相互行為というものが非常に深く関わってくる。
私たちは、相互行為において、役割を遂行すると同時に、役割を遂行する演技もしているのである。浜日出夫、2007「ゴフマンードラマトゥルギー」、『社会学』、有斐閣、63
役割を遂行する、そして役割を遂行する演技をする
とは具体的にはどのような行動の違いなのか・・・?
例を挙げるのなら、(というか現代の行動のほぼすべてに当てはまるのだが)
友人に勉強を教えるときのことを考えてみよう。
私の場合。
「友人に勉強を教える」という状況においては、私は友人に勉強を教えるという先生的な役割を遂行する一方で、もしかしたら「勉強を教える」という役割を演じている、ということだ。
後者の「演じる」ということは、とどのつまり演技のことであり、実際に「勉強を教える」という行動に集中できない可能性も出てくる。
友人に対しては、「勉強を教えるという状況」にある時
実際に勉強を教えている行動と、勉強を教える演技をする行動という
ある種の多元性が示されているのです。
タピオカ
最近は流行りの廃りが異常に速いですから、どうなっているかは分かりませんが、「タピオカ」は一世を風靡した。と思います
たくさんの若い子たちが、「タピオカ」「タピオカミルクティー」を求め、店に訪れたのではないでしょうか。
そしてそこでは往々にして、「タピオカミルクティー」を飲むという状況が発生します。
これを先ほどの相互行為という観点から見てみましょう・・・!
タピオカミルクティーを売っている店に訪れた人々は、そこでタピオカミルクティーを飲む・・・だけではありませんね。
タピオカミルクティー(以下タピオカ)
を飲む客という役割を遂行するとともに、タピオカを飲むという役割を演じているのです。
さらに言うのならば、結構の数の人がその状況で写真を撮って、SNSにあげたりしていますよね。
ということは、彼らはタピオカを飲む自分、もしくはタピオカを写真に収め、投稿するという役割を担い、そしてその役割を演技する。
まわりに人がいれば一層そのような役割をきちんと演じるかもしれません。
捨てられるタピオカ
これはタピオカに限った話ではないかもしれませんが、とりあえずタピオカで話を続けましょう。
新品の、それも一滴も飲まれていないタピオカが捨てられている状況を見てどんなことが思いつくでしょう?
私は、そのタピオカを捨てた人が、演技に徹しすぎて、役割を担うことをおろそかにしてしまっているんだなと今までの記述から考えます。
そういえば先ほど、
後者の「演じる」ということは、とどのつまり演技のことであり、実際に「勉強を教える」という行動に集中できない可能性も出てくる。
と書きました。なんだかこの状況に似ているような気がしますね。
ドラマツルギー
ゴフマンはもう一つ「表現」という側面に注目して相互行為を記述しようとする。浜日出夫、2007、「ゴフマンードラマトゥルギー」、『社会学』、有斐閣、64
ドラマツルギーは今まで書いてきた相互行為の「演技」に焦点を当てた考えかたです。
Eveさんの「ドラマツルギー」も、これを知った後で聞くと、歌詞の意味が理解できるような気がします。
でも不思議です。
なぜ私たちは、このような役割を担ったり、役割を演じなければいけないのでしょうか?
この「演技」が私たちの日常のほとんで行われているとしたら、「自分」「自己」というものは一体どこに存在しているのか?
そもそも「自分」や「自己」はどのように決めるべきなのか?
う~ん。簡単に答えは出そうにないですね。
まぁそう簡単に見つかっても、面白くないんですがね・・・。
と
今日も大学生は迷っている。
さて、ここまで書いてきたのですけれど
今一度、タイトルの上にあるイラスト見てみましょう・・・。
雨に降られて、慌てているような光景が伺えますが、何となくこの絵も、雨に突然降られて焦っている、という演技をし、ある種の役割に徹しているように見えませんか?