どんな暴力も決して許されない
と
どっかのCMで流れていたような
そうかそうか。
ど・ん・な、暴力も許されないんだな?
じゃあ、人類は滅ぶしかありませんね。
レヴィナスという哲学者は、人間の「関係そのもの」が、暴力だと云いました。その為に、「歓待」或いは「最小暴力」だ必要であるとさえ言います。
人間関係そのものが暴力である。これは、一種の屁理屈であるとさえ云われるかもしれない。(名のある哲学者がそれを提唱しようとも!)
どんな暴力も決して許されない
それを文字通り受け取ろうか。(これが、メッセージの送り側と受け取り側の齟齬になるというなら、それでも構わないけれど)
暴力は、許されてはならない。どんなものであっても。つまりは、あらゆる暴力は許されないということだ。私の理解では、言葉・理解・(人間)関係が、暴力になる。
あらら。
では、この文章そのものが、「暴力」ではないですか。(なんと残念な事)
いや、正確には、言葉そのものというよりかは、言葉を使ってでしか思考できないということ、それによってしか理解できないということ、それによってしか関係が構築され得ないということが、その選択の余地の無さが、「暴力」なのではないかと、勝手に解釈しています。
なら、私は、暴力をふるい続けるほかありません。そうしなければ、私は抹殺されたほうがいいでしょうから。
なので、「どんな暴力も決して許されない」という言葉には、従えない。従うつもりなぞ、どこにも無い。従うわけがない。従わない。従うべきではない。従うことはない。従ってはならない。従わないだろう。
なぜなら、私自身が「暴力」なのであるから。「どんな暴力も決して許されない」なら、それは必然的に、私自身の「死」を意味するでしょう。
やはり、私は、「どんな暴力も決して許されない」という言葉には、従えない。というか、「どんな」と言っておきながら、「あらゆる」が含まれていないことに、納得がいかない。
文字拘泥だと、頭がおかしいだの、それは関係無い。(人間は大抵頭がオカシイのだ。)
それくらいに、「言葉」を軽々しく使うことに対して、寛容にはなれないのだろう。(残念。私は、寛容の「k」の発音もないような性格かもしれないからね。しかし、これについて、文字拘泥するか、貴方次第ではあるけどね?)
言葉は、重い。しかしそれに伴う解釈など、いくらでも存在する。上手いと言って、「下手」だと、私は実際に相手に伝えることが出来る。
どんな暴力も決して許されない
それは、本当に、「どんな」であるのか?私には、「あらゆる」には感じられない。「どんな」という言葉を使うことの意味が、本当に分かって使っているのだろうか。それとも、送ったメッセージが、そのまま受け取り手に伝わるとでも、思っているのだろうか。
ど・ん・な、と言ったところで、そこにはやはり「包摂と排除」が存在している。まただ。
本当に、「どんな」、「どんな」暴力も「決して」許されないのなら、というかその前に、そもそも「暴力」とは何かについて、考えたことはあるのか。しかし当然、どう「暴力」を捉えるかは、考えたところで、変わってきてしまう。
つまり、この文章という「暴力」には、意味がない。結局、言葉なんてあやふやなもの、最終的には、あてにならない。
言葉を尽くせ。それは、つまりは、何事をも真には、伝えられないことを意味する。あるのは、「分かった」という催眠だ。(或いはdouble contigency)
随分短い割には、中身の無い文章だった。
書いている私も、分からないときた。
まぁそうだ。理解できる文章を書けなんて、誰にも言われちゃいないもの。(しかしどうにも、私は意味の分からない文章を打っている方が、文の進みがいい。)
この文から、「気持ち悪い」「意味わからん」「何が言いたいのか分からない」と感じたなら、この文章は恐らく役割を果たせたことでしょう。
と
今日も大学生は惟っている。