没個性

分かり易い個性があったらと、幾度となく考えたことが有る。まさに「僕のヒーローアカデミア」に登場する超常能力のような「個性(quirk,alter)」が、あればもう少し覚えてもらっていたりとか、人を驚かせることが出来たのだろうかとか。

個性がない。というか、分かり易い特徴がない。優しいとか、性格がいいとかいう人間は、色んな意味でワタシのことをちっとも見ていないのだと思う。では個性は何かを言われると、定義するのは簡単ではない。自分で自分のことを客観視で来ていないのかもしれない。自己分析というのは、なんだか胡散臭くて一度タリとてした覚えがない。するにしても、「自分とは何か」というメタ的な思考に絡まれてしまって、結局何もする気にならない。

あぁ。ワタシは没個性なのだなとよく感じる。そういえば(「そういえば」で済む話しじゃないけど)小中高の子どもの自殺者数が最多になったというニュースを見た(あくまでも情報なので真実は分からないが)。ネットが発達して、SNSが周りに巣くっていて、常に他人との比較をしてしまうという状況(或いはこのコロナ禍やクソみたいな社会か)が相まって、自死する人間が増えているのだろうかと。彼ははたして、没個性だったのか。それはよくわからない。だが、あまりにも個性的(に見える)ものが、広がっている。その分、自分の没個性という欠如のない、プロメテウスを繋ぎとめる大きな岩のようなものが、自分を圧死させようとしてくるではないか。

ワタシはもしかしすれば、死んでしまった人間よりも、没個性的かもしれない。だが、没個性だからといって、どうとなるというわけでもない。以前個性的であれと、大人や社会は強制してくるんだろうし、子どもは教育の中で個性的であれと教えられるのだろう。夢があって当然。可能性も。個性も。意思も。そういうものが「あるんだろ?」という不可解な前提が見え隠れしている。第一、子どもという区分も、絶対ではない。子どもという概念は、生れた数百年ぽっち。曖昧な区分の人間に、さらに曖昧な前提を押し付けてくる。「子ども」には、言うほど大層なもんはないとも言えるかもしれない。いや、無いというよりかは、過度に期待される事への反吐がでるほどの気持ち悪さといったところか。

ワタシは、小さな子どもに、期待だとか、可能性だとか、個性や夢だとか、そういうものを持つことはしないと思う(自然そのものに何か期待するんですか?)。ワタシの中には、そういうのは認識論誤謬であるという蓋然的真実があるから。没個性の子どもの何が悪いのか。現実は、漫画じゃない。漫画は漫画だから面白いのであって、現実と混同するものでもない。学ぶことはあるけれど、まんま真似しろというのは違う気がする。子どもは、意思をもって生まれてくることはない。生まれたくて生まれてくるわけでもない。運命だとか、そういうのはただのまやかしだろう。

没個性である。そういうことしかよく分かっていない。無理にそこから、特徴を出そうと思っても、あるわけじゃない。みんながみんな、そう上手くいくとは思わない。スキルだとか。語学能力だとか。意味の分からないコミュニケーション能力だとか。夢だとか。突出した何かがあるわけではない。ワタシは、ただ暮らしているだけの常民だからさ。究極、土をいじって、程よく他者と関わって、歌を歌って暮らせればいいと思っているけれど、社会がそれを許してくれなそうだから。ワタシは、なるほど結構意志薄弱な人間なのだ。

自己紹介をしてくれとか、自分のことについてなんか書いてとか、余程のことでなかぎりは、面倒くさいし、非常に身勝手だけれど、正直嫌いの部類に入る。そんなのどうでもいいから、アナタの話しだけ聞かせてくださいは、ダメですか? ワタシは、自分よりも他人に興味があるんだ。ワタシはただの、マスツーリズム的な観光客でいいから。個性的で、あれ。いやいや、個性的であっても、そうでなくとも構わないくらいのスタンスで、生きてもいいんじゃないですか。ワタシはただ生きているだけなので。




今日も大学生は惟っている



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