存在論的証明(神の存在証明)が現れた!
神の存在証明の一つに
存在論的証明というものがある。
その他に、宇宙論的証明と物理神学的証明というものもあるが、こちらはそれほど難しくない。
つまり、この「存在論的証明」がムズカシイ(私には)かったので、ここで整理をしたいと思う。
個物と概念
デカルトとカントの神の捉え方には違いがある。
これは、英語の「be動詞」の二義性、つまり「ある」と「~である」という違いに一致する。
デカルトの考えでは、神は最も実存的なものであり、その実存の際たる者が存在しないという矛盾は容認できないのであるから、神は必然的に存在するという。
カントの場合、「~である」という意味に注目した。というか、そもそも「sein」や「be」が「存在する」という用法に絞られることは意図的な動作に他ならないとは思うが。
つまり、あらゆる「~である」を付与できる完全な神は、既にその存在を規定されているということであり、そこからその「完全な実存」を証明することはできないのだ。
※「実存」とは、物として存在すること(ウーシアー)
つまりどういうことだってばよ
先に言っておくと、私もよく分かっていない。
さて、つまるところ
デカルトは、神を個物と見なし
カントは、神を観念と見なしたということ・・・であろう。
100ターラーならぬ100円
この考えを利用して、お金の100円で例を挙げよう。
カントの考えに基づけば、想像の100円も、現実の100円も、使えるという点を除いて同じものということになる。
私たちが認識する、つまり現象としての物体は、世界そのものを反映しているわけでは無い。
つまり、それは私たちの認識の枠組みにはめ込まれて捉えられるものである。
この点では、想像という最初から私たちが想起するものとは大した相違が無いことになる。
依然として、使えるか使えないかの違いだけが残っている。
神も、これと同様のもの。
観念としてか存在しないのであれば、それが想像上ものであろうが、観念存在であろうが、違いはないということかな・・・?
結論の様なモノ
カントは、デカルトの存在論的証明(神の存在証明)で、神の実存を否定した。
多分・・・
と
今日も大学生は潜考している。