仇(恩な訳があるか)を仇(恩であって欲しい)で返す


また、「ひきニートのにゃーさん」の言説を借りたいと思う。ありがとうございます、にゃーさん。

このにゃーさんの、言説でにおいて注目したい部分が、二つあります。

子供を産むのは運命共同体を作る為
生きることを放棄しない様に

この点から見れば、子どもは限りなく「親の為」の存在だと考えることが出来るでしょう。「親が、運命共同体を作るため」「親が、死なないため」。子どもそのものの存在する価値というよりかは、子どもが存在することによって生まれる、自分の安堵・安心感の方が、重要であるとも考えられるかもしれません。

この考えにしたがえば、子どもから見れば、生れさせられた「仇」というものが起こる。よく繰り返しているが、子どもが生れさせられる時、子どもの意志・生まれない権利というというものは、考慮出来ないし、考慮されることはありません。

子どもの誕生の受動性に関して、西島佑の『友と敵の脱構築 感情と偶然の哲学試論』から、ある文章を引用したい。

出産は、能動的には行えない。それは性としての男性から受動性(妊娠)が必要だ。この受動性をもって女性にとっての出産が根源的な男性の暴力とされることもある。「わたしは、男性に出産(妊娠)させられる」(受動性)。(西島佑、2020、73)

子どもの誕生は、それ自体が受動的であるだけでなく、その根源として受動的なのである。しかも、その根源としての受動性は、「根源的な男性の暴力」によってもたらされるものなのです。

(まぁ将来、試験管ベビーが誕生したら、判断しづらいけども)

生まれさせられる上に、生命そのものとして発生させられるという、二重の受動性を、「子どもの誕生」は抱えています。子どもからしてみれば、「~られる」ばかりしかない。もう一種の、「仇」とさえ考えられるかもしれません。

そうして、生れさせられた子どもの中には、身体的に、大人になるものが出てくる。その中には、どうやらまた子どもを設ける者がいるとか。

これはきっと、私の性格がクソを下水に煮込んだようなものであることが原因かもしれませんが、「子どもの誕生」は、生れさせられたという「仇」を、またその子供に「仇」という形で、返しているように見えてしまうのです。そしてその「仇」が、延々と続いていく。

「仇」は、「子供を産むのは運命共同体を作る為」「生きることを放棄しない様に」という形をとって現れ、またそれ以降の子どもに「仇」という形で返されます。

生まれるという行為は、果てしなく「受動的」であることを繰り返しておきましょう。その受動性の根源は、「根源的な男性の暴力」に他ならないのです。

言ってしまえば、「子ども」は一種の「暴力」から生じてしまう存在なのです。どんな形であろうと、「子ども」の根源は「暴力」なのかもしれないと考えると、その暴力を最初に受けた母親に申し訳なくなります。

ごめんね。私は、あなたが暴力を受けなきゃ、生れることはないの。ごめんね。私は、暴力そのものなのかもしれないの。ごめんね。

もしかしたら、その暴力を受けた母親の無意識的な恨みが、「仇」となって現れ、子どもは知らぬ世界にいつの間にか生まれさせられているのでしょうか?

「根源」が暴力である子供は、生まれさせられた時、一体なにを思うのでしょうか・・・?




今日も大学生は惟っている。


引用文献

西島佑.2020.「友」と「敵」の脱構築 感情と感情と偶然性の哲学試論.晃洋書房


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