モノガタル
「サーガ」と、誰かが口にしていたか。大文字の他者、或いはビックブラザー、歩いは大きな物語とでも呼べるかもしれないもの。
充溢。それは、個人の「モノガタリ」によってのもの。まるで、何か大きな柱、自分で「ある」ことだけでいい価値を求めているかのように。(その「ある」のためには、「し」なければならないようだけれど)
溢れている。キーネーシスのような物語。いつ終わるかも分からないものなのに、今何クールかも、何期かも分からないのに、「物語」がそこにある。
不思議だ。物語は、最初から最後までがハッキリしているはずであるが、転がっているのは、微分された情報の断片のようなものばかり。そこに、「ネタバレ」や、「考察」は立ち現れてはこないけれど。
人生が物語化している。
或いは、人生が観光地化している。
つまりは、大々的に編集されているということだ。人生が、外向きになっている。見世物向きになっている。他者からの視点が、いつのまにか人生に混在している。見えない権力という言葉があったが、なんだかそれに似ている。自らの人生を見ようとすると、それを「他者がどう見るか」という視点が入っている。
そこにいるはずの無い「他人」という、見えない何かが、無意識的に入っている。(通俗的に言えば「映え」というやつだろうか。)
人生の主人公(のようなもの)だけであったはずなのに、彼らは、人生の編集者、作者になっているのだろうか。いや、もしかしたら、編集者、作者になった上で、自分の人生の「主人公」になっているのかもしれない。
主人公だ。人生の。それは間違ってはいないが、半分は嘘だ。換言すれば、それしか出来ることがないのだ。赤血球が、酸素しか運ぶことが出来ないように、自分の人生の主体(客体の客体)になるほかないのだ。それだけなのだ。
人生をモノガタル。
自分を語るときに、自分の名前に、或いは二つ名やキャッチコピーや、説明欄に、概要欄に、自分の経験や由来や、或いは特に意味は無いという「意味」を込める。
或いは、日常の一風景を、今日の出来事を、イベントのようものを、人生におけるメモラブルなものを、他者に知らせようとする。そうやって、自分しか操ることの出来ない人生を、物語ることによって、最初から制限されている自分の人生を、他者と共有するという形で、その限界を超えようとしているのだろうか。(分からない。)
物語化、或いはストーリー化する人生。
それは、有意味に飾られた無意味。無意味であるからこそ、有意味に見せようとする。有意味に魅せようとすればするほど、無意味さが際立つ。物語が口から滑る。誰かの感情上を滑り、まるで誰かが総るかのように、各々が、人間が、物語化する。
あらゆる要素は、キャラクターを構成する、物語を構成するための、範列だ。職業、年齢、家族構成、夢、悩み、現状、特技、趣味、思想、口調、性別、好きなもの、性質、気性、病気、状態、あらゆるものが、物語(人生)へと収斂しているような。
いや単にネット上での活動というものにとどまらず、人間の本質が、「物語化」であるかもしれない。ベルクソンの回顧的錯覚か、それともハイデガーの「時間性の再構造化」か・・・。(つまりは、偶然性の意味的内面化としての必然性化が、人間自身であるのか)
そこに、「ああ、これが終わりか」を思えるものが、あるといいんやけど。
と
今日も大学生は惟っている。
参考文献
木田元.2001.偶然性と運命.岩波新書