共有のレンジ
どこまでを「共有」とみなすか。「世界でいちばん幸せな国フィジーの世界でいちばん非常識な幸福論 」という、二カ月くらい前(202012月)に読んだ本の内容に少し意識を傾けて、そんなことを思った。家族とは、よく共有をする。服とか、もちろん食事とか(今はコロナもあってし辛いけんど)。けど、全てを共有しているわけではない。ワタシは自分の部屋を持っていないが、他の家族のそれぞれの部屋にずっといるわけでもない。共有するものには、あるレンジ(範囲)がある。
フィジーでは、今はコロナ禍だが違うかもしれないが、ありとあらゆるものを共有するらしい。例えば、ある人の給料とか。給料日には、その人の給料を全て使って、どんちゃん騒ぎ。すべてを使い果たしてしまうとか。けど大丈夫。なぜなら、その人もまた別の、給料日の人間のところに集まればいいだけのこと。なるほどよく出来ているなぁと思った。「共有」していいものと、してはいけないものの判断基準で、その国民性というか、或いは性格も推し量れるのではないかとも考えた。
服。食事。お金。保証人。携帯。多分他にもいろいろある。とはいうものの、ワタシはどこまで共有できるだろう。それも、よく知らない人に対して、も含めて。服は、ギリギリ大丈夫。傘はいける。お金は、大丈夫じゃない。ご飯は親しい人とだったらOK。知識は全然共有する。技術もイケると思う。もし一人暮らしをしていたら、親しい人なら、住ませてあげるかもしれない。面識のない人は、恐い。というように、案外共有できないことの方が多い気がする。ワタシの寛容さが足りないのか。変な人に会いたくないという保身からか。偶然性だのなんだの言っておいて、やっぱりそういうのが出来ないんだなと思った。口だけです。はい。
でも、共有は、欠かせないことだとは思う。実際の物じゃなくても、気持ちの共有とか。思いを共有するとか。いや共有が大事というよりかは、何かものを所有して、他者に分け与えないことを容認できないのだと思う。著作権とか気にしなくていいなら、有益な情報はどんどん公開しても良いレベル。でもこれは自分の意見です!って言いたい人がいるから、それは遠い国のお話であるけれど(でもまぁ、著作権そのもんを敵視しているわけではない)。
共有は、物資や天然資源がますます不足するこの時代にあって、避けることが出来ないことだとは思う。虐殺器官の主人公であるシェパードが、物語の終わる寸前で、食料を狙ってきた泥棒を射殺したシーンが何故か思い噛んできた。この食料は、お前にはやらないよって。死体の存在が、共有という行為を阻んでいることを表しているんだろうなって。そういうことなんだろうなと納得は出来たけど、現実問題自分がそういう立場になりたくはないということが思い浮かんだ。若い人たちは、シェアをする意識が割かしあるようだけど、それも、「どこまでも」というわけではない。
どこかで人間というのは、自分という存在を勘定に入れているものだ。まずは自分。そう考えているもの。もちろんまずは他人という例外もいるとは思うけど。現実を無視して、純粋な理想だけを述べるなら、皆がみんな、節度や徳目をもって、共有できるものはどんどん共有してほしい。しかし共有をするという意識をするわけではなく、ほぼ無意識的に。共有をしてもらった人間が、自然とまた誰かに共有をする。そういう好循環が出来ればいいのにと思う。けど、実力も過程もずっとばっしたものなど、夢泡沫でしかない。実際には無理がある。なんか変な人間はいるし、なんかヤバいやつもいる(ワタシもやばい奴かもしれない)。それを多様性という言葉で片づけることは、ワタシには無理だ。
色々書いているが、他者に寛容であり、出来るなら他者をまず勘定に入れる人間でありたい。どうせ世界は変えられない。なら自分が変わるしかない。だから、人は他人を信じるという誤解や錯覚に頼らずにはいられないのだろうか。
と
今日も大学生は惟っている