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MHA HEROES:RISING を語る

※ネタバレ注意です。

これはヒロアカ狂信者のヒロアカ狂信者による、ヒロアカ狂信者のための記事となります(なってほしい)。なかなか書いていて時間を忘れることの出来るテーマは、今のところ「ヒロアカ」か「ヨルシカ」くらいだなぁと思う所・・・。まぁとりあえず、「僕のヒーローアカデミア」についてただただ語り、記すだけの「無為」を楽しんでいただけたらと思います。

散歩をしている時に、どうしても去年(2019)に見た、「僕のヒーローアカデミア HEROES RISING」について、その魅力を伝えると共に、考察をしてみたくなったので、ここに記しておくことにします。割と長めかなと思うので、ご容赦くださいませ。

映画

さて改めて、僕のヒーローアカデミアの二作目の映画である「僕のヒーローアカデミア HEROES RISING」について、その魅力についてもろもろ書いていくことにします。

一話の再現/神野の再現/異なる部分/ヒーローであり、ヒーローでない/勝って助ける/矛盾から見えるものと狂気/ヒーローとは/緑谷出久:エンディング/映画をまた見る時は/

という目次になっていますので、お好きなところから見ていただけるといいかなと思いますよ。

1話の再現

特徴的な点としては、まず一つ目に、僕のヒーローアカデミアの第一巻の第一話の再現にあるといえます。

・活真くんと真幌ちゃんの位置づけ

→劇中限定キャラクターである活真くんと真幌ちゃんは、もちろん非常に重要な役回りと言えるでしょう。というのも、彼らの存在は、この映画を完成させることに必須のものであるからなのです。

この映画の隠れたコンセプトというか、個人的にヒシヒシを感じたのは、「原点回帰」だったんです。もう一度、ある意味では最初に戻って、今の緑谷出久たちがどのように映るのかということを、僕のヒーローアカデミアの第一話を再現し、その第一話との対比をより明確に描写することによって、文字通りの「HEROES RISING」というタイトルの回収をしているのかな!と考えます。

では、具体的に、どのようにその僕のヒーローアカデミアの「第一話」が再現されているのかについて、まずは、活真くんと真幌ちゃんの位置づけから(あくまで個人の感想や予想の域を出る事はないのですが)述べていきましょう。

活真くんと真幌ちゃんは、僕のヒーローアカデミア 第一話「緑谷出久:オリジン」で描写される、緑谷出久と爆轟勝己の位置づけにとても似ているのです。劇中では、ナインをはじめとするヴィランたちが、雄英高校ヒーロー科・一年A組の面々と対峙し、最終的に、ナインが目標達成を目指し、緑谷出久と爆轟勝己と戦闘することになります。

そしてやってくる、そのシーン。お姉ちゃんである真幌が、ナインに囚われてしまう。刹那、そこにはかつてに目にした人物の行動と軌を一にする子がいました。そう、活真くんは、姉の真幌ちゃんを一心に助けようと、弱弱しくも大胆かつ勇敢に、拳を振り上げ、泣きじゃくりながら、そのナインに立ち向かうのです。

頼りない背中。どうしようもなく頼りないその姿に、何故かそこに感じてしまうカッコ良さに見覚えがありました。一切の躊躇なく踏み込む無謀な行いにしか見えないようなことをする子供が、「島乃活真」という姿によってまた目の前に現れるとは予想もしていなかったことを覚えています。

そしてまさにそれは、ヘドロヴィランに囚われた爆轟勝己(以下、「かっちゃん」)を助けようと、誰もがうろたえる中で唯一身体を前へ前へと進め、ヴィランに向かっていった、「緑谷出久」そのものの姿だったのです。

活真くんと真幌ちゃんの位置づけ。それは、助けようとする緑谷出久と、助けられる側の爆轟勝己という位置そのものであり、この二人の描写を再現することによって、僕のヒーローアカデミアの「第一話」を再現することにもつながり、また緑谷出久(以下、「デク」)たちの成長を描き出すことにも寄与しているのではと考えます。

・緑谷出久と爆轟勝己の位置づけ

→活真くんと真幌ちゃんによって、僕のヒーローアカデミアの「第一話」における、デクとかっちゃんの状況を描き出したシーンですが、注目したい部分は、もちろんそこだけではありません。

本作の主人公であるデク(緑谷出久)と、幼馴染でライバルでもあるかっちゃん(爆轟勝己)の、劇中での位置づけにも非常に興味深く、感動してしまうものがあります。

劇中では、デクとかっちゃんは「オールマイト」つまり、「ヒーロー」という位置づけになっています(変化してします)。無謀にもヴィランに立ち向かい、ヴィランに囚われ、互いが互いに己の無力さを感じているだけの子どもではもはやなく、ある意味「オールマイト」のような、ピンチに訪れるヒーローとして、二人は描かれることになります。(おそらく!)

活真くんと真幌ちゃんを、「ヒーロー」としてのデクとかっちゃんが助ける(ヴィランはその時点で倒されてはいないという点でも)という描写は、僕のヒーローアカデミアの「第一話」の、ヘドロヴィランの事件そのものなのです。

・スマッシュに関わる演出

→ここからが、僕のヒーローアカデミアの「第一話」の再現という観点から見た、「僕のヒーローアカデミア HEROES RISING」における重要なポイントになります。

繰り返しおきますが、ネタバレ注意です。

ナインに追い詰められた、デクとかっちゃん。空遊咬鮫獣 サメラによって、身体の自由もままならぬまま、ボロボロの状態で、二人は意気消沈をせんか否かの瀬戸際で、依然抗い続けようとするのです。

ここからの描写はあまり関係ないので、書きません。とりあえず、「スマッシュ」に関する描写についての説明をしたいと思います。追い詰められたデクとかっちゃんは、暗雲が立ち込み見下ろす大地に、その脚をキッと立たせ、構えます。

放たれる「スマッシュ」。その名は、「デトロイトスマッシュ」。大地を暗く染めていたその暗雲が、みるみるうちに雲散していく。デトロイトスマッシュによって発生したエネルギーは、天候すらも変えていく。突き上げたその拳のはるか先には、先ほどとは打って変わって、晴朗な空が広がっている。

そうこれも、いやこれこそが僕のヒーローアカデミアの「第一話」の再現の中で、ある意味では、前述した内容と同じくらいに、重要な描写であると考えます。

僕のヒーローアカデミアの「第一話」では、ヘドロヴィランを退散させるべく、オールマイトがデトロイトスマッシュを放ちます。劇中でも、「デトロイトスマッシュ」がこのシーンで使われていたのは、おそらくこのオールマイトのデトロイトスマッシュを意識してのことだと思われます。

放たれるデトロイトスマッシュ。急変する天候。ワン・フォー・オール。まさにこれらの要素というか、描写というのは、「オールマイト」の象徴なのではないでしょうか。

・空と拳

また注目したいのは、「デトロイトスマッシュ」の向かう先なんですね。一話の再現でもある、デクとかっちゃんのデトロイトスマッシュというのは、分かっているかたもいるかもしれませんが、オールマイトの放つスマッシュとは、異なる部分があります。オールマイトの「デトロイトスマッシュ」は、ヘドロヴィランに向けられたものなんですね。

あれはデクとかっちゃんを助けるということと、ヘドロヴィランを倒すためという二つの目的があったために、ヘドロヴィランに向けられたものだとは思うのですが。それに対して、デクとかっちゃんの「デトロイトスマッシュ」は、規模も、状況も異なる部分が多いのですが、ヴィランそのものに向けられたものではありません。

彼らの「デトロイトスマッシュ」は、空に向けられたものなんです。

では何故、彼らの「デトロイトスマッシュ」は、空に向かって放たれるのでしょうか。これに関しては、「ナイン」の元々の個性が関連しています。これは「僕のヒーローアカデミア vol.R」に載っているのですが、ナインの個性は、

空を操る

こと。

那歩島全体を覆う暗雲などは、おそらくナインの個性によるものだったのです。さすがにあの天候は自然ではありません。つまり、デクとかっちゃんの「デトロイトスマッシュ」は、空に向けられたというよりかは、「ナインの”空を操る”という個性」に向けられたと云った方がいいかもしれません。物理的には「空」へでしょうが、比喩としては、「ワン・フォー・オール」という個性と、「空を操る」というナインの個性の対立、そして打破といえると考えられます。

ヴィラン、そしてヴィランの個性の比喩としての「空」に「デトロイトスマッシュ」を打ち込むというのは、オールマイトのオマージュでもありますし、また反撃開始の合図だったのではないでしょうか・・・。

まとめると、活真くんと真幌ちゃんの位置づけが、僕のヒーローアカデミアの「第一話」のデクとかっちゃんのオマージュであり、またデクとかっちゃんが、オールマイト的存在としてのヒーローとして描かれており、状況の打破を試みるかのように放たれたデトロイトスマッシュと、その後の描写というものが、第一話の再現だと考えられると思います!

神野の再現

・継承

→オールマイトは神野において、巨悪であるオールフォーワンと対峙することになります。しかしオールマイトはすでに、ワン・フォー・オールをデクに譲渡してしまった後。彼の中には、もうワン・フォー・オールという個性が残っているとは言い難い状態なのです。

そして劇中においても、このような描写が見受けられます。かっちゃんにワン・フォー・オールを譲渡しようと覚悟し、譲渡を果たしたデクは、デクにワン・フォー・オールを譲渡したオールマイトの姿そのものなのです。

細かいことも色々考えることも出来ますが、一旦置いといて。

・最後のスマッシュ

→「残り火ワン・フォー・オール」。まさに、デクが持ち合わせていたものは、残り火、いづれは潰えてしまうようになってしまったワン・フォー・オールなのです。

また、神野の再現として捉えられる部分は、「ワン・フォー・オール」に焦点を当てたのみに現れる所だけではありません。デク、そしてかっちゃんが、ナインと対峙する構図も、神野の時と似ているのです。

ナイン自体は、複数の個性を持ち合わせている化け物級の強さを誇るものです。ナインという名から推測出来るように、九の個性を持ち合わせている(?)ようですが、実はこのナインという人物の位置づけは、オールフォーワンのそれと似ていると考えられます。

複数の個性を保持し、「ワン・フォー・オール」の持ち主と対峙し、”彼ら”(我ら)の世界の創造の為に奔走する。

「神野の再現」と書いているように、劇中のラスト、デク・かっちゃんとナインの対峙は、「オールマイト」vs「オールフォーワン」という対峙に置き換えることが出来るのです。言ってしまえば、「ナイン」というヴィランは、「オールフォーワン」の系譜を継ぐものとも言えますから、この対峙の再現は、意識して行われてのではと思います。

そして、ナインという難敵に、究極の一撃が放たれます。それは、かつてオールマイトが、オールフォーワンに向けてはなった「ユナイテッドステイツオブスマッシュ」のように、オールマイトにとっての最後のスマッシュであったように、デクにとっての最後のスマッシュであったのだと思います。



異なる部分

しかしながら、劇中には最後のスマッシュのような再現(オマージュ)だけではなく、緑谷出久らしさを象徴する部分も描写されています。

・最後のスマッシュ

ナインに向けて放たれるスマッシュ。しかしこれは、デクの拳によるものではありません。彼が放つ最後のスマッシュは、「足」によるものなのです。彼が足によるスマッシュを習得したのには、ある理由がありました・・・。

それは、「助けられなかった」という経験を、身に染みて体感しているからなのです。足によるスマッシュ、「シュートスタイル」の確立の契機を作り出したのは、林間学校の際に、開闢行動隊(ヴィラン連合の一派)に襲撃され、緑谷出久がマスキュラ―に対峙することになる件まで遡ることが出来ます。

マスキュラーとの戦闘。複雑骨折を繰り返す両腕。デクの無惨な両腕の怪我に耐えられないデクのお母さん。(再び)ヴィランに囚われてしまったかっちゃん。オールマイトという鎖。それらすべてが、デクの「シュートスタイル」に、いやこれらだけではありません、飯田天哉くんのレシプロという個性に必要な「足」の動き、発目明さんの柔軟な発想なども含め、デクがヒーローになる為の研鑽を重ねる中で見た様々な人の言動や、失敗や挫折が、最後のスマッシュとしての「シュートスタイル」に現れているのだと思います。

考えてみれば、「シュートスタイル」を必殺技として使用する(ここでは究極の必殺技として使用しているという意味なのですが)、これは今までには無かったことです。入学試験はもちろん、USJ襲撃、定期試験、死穢八斎會編などなど、最終手段としての必殺技には、必ず「腕」「拳」が使用されていました。

そこで不自然に(ある意味では自然に)、劇中の、最後のスマッシュ、「シュートスタイル」が使用される。その不自然さから見て取れることも、たくさんありますね。


ヒーローであり、ヒーローでない

劇中で、もっとも重要なポイントというか、考えみたいなものがあるので、それについても書いていきます。

活真くんと真幌を含めた、那歩島の人々を守るために下した判断は、物語の根幹にかかわるようなものであったことは、揺るがない事実だと思います。緑谷出久は、自らの努力で手に入れた、いや手に入れることがなんとか出来た個性というものを、自ら手放す決断というか、英断をするのです。

デクの中にあるものは、「ワン・フォー・オール」でありながら、ただの残りかすに近いものです。それでも彼は、「助ける」ということを依然優先すするのです。

ここが、この記事の中で一番伝えておきたいこと。それは、何がもっとヒーローたらしめるのか。緑谷出久は、そこに自ら足を踏み込みます。自分がヒーローであるのだ、ヒーローとなるのだという未来や将来よりも、ただ人々を助けるということを、何よりも重んじるのです。その為に、デクはかっちゃんに「ワン・フォー・オール」を譲渡するのです。

つまりデク(緑谷出久)という人間は、自ら築いてきたものを、自分で壊すことを選んだのです。ヒーローになるという道を、ヒーローという夢をあきらめた、いや「諦めた」という表現は違うでしょう。ヒーローであることよりも、純粋に自己犠牲をするというその在り方は、中々目にしません。そこには、皮肉ではありませんが、とても考えさせられるものが見えてきます。それは、「ヒーローになる道を絶たれようとも、人を助けようとするデクが、もっともヒーローというものを体現している」ように感じられるということです。まぁ、あくまで主観に過ぎませんが。

これは、「僕のヒーローアカデミア」という作品です。緑谷出久は、重要なコンセプトである、「主人公がヒーローになる道で努力する」という前提すらぶち壊していく。自分がどうであるかよりも、他人がどうであるかを天秤にかけ、平気で後者を選ぶのが、緑谷出久という人間。彼はもっともヒーロー的でありながら、その実、自分がヒーローになれるかどうかを気にしていないというアンビバレントな状況にあるのではと考えます。


勝って助ける

究極の自己犠牲。緑谷出久を形容するのなら、この文言がしっくりきます。それはオールマイト以上の狂気ですらあるのではと思ってしまいます。緑谷出久は、「僕のヒーローアカデミア」という作品においては、本当に「助ける」という行動や言葉を体現しています。

例えば、入学試験の結果発表の時。

緑谷出久がなぜ雄英高校ヒーロー科に入学できたのかという理由についてですが、それも緑谷出久が人を「助けた」からなんですね。それに対し、爆轟勝己はロボットを破壊してポイントを稼ぐことによって、雄英高校ヒーロー科に入学しています。試験結果を教師陣が見ているシーンで、「レスキューポイント(人を助けることによって得られるポイント)」を60点獲得したという風に、人助けだけで入学を許可されている緑谷出久の特異性についても少し言及されていたりします。

「助ける」という緑谷出久の行動は、やはり映画にも現れたのだと考えることが出来ます。「助ける」ということを優先しすぎて、自身の夢までの犠牲にするという、ある意味ではワーカホリックのような状態の究極を行くのが、緑谷出久という少年であり、狂人であり、「ヒーロー」なのかな~と思います。

矛盾から見えるものと狂気

ヒーローへ道を絶たれるような選択をするという、ある意味では最もヒーローらしい緑谷出久から見受けられる矛盾から、なにを読み取ることが出来るでしょうか。それは、「僕のヒーローアカデミア」の中のヒーロー像なのではないかと思います。

もちろんあくまで考察に過ぎないので、軽く流していただいても構いません。まず考えていく前に、僕のヒーローアカデミアにおける「ヒーロー」はどのように定義されているのかについて引用したいと思います。

ヒーローとは誰もが憧れる者 ヒーローとは脚光を浴びる者 ヒーローとは考えるより先に体が動き数多の理不尽を覆していく者 ヒーローとは敵に畏怖を与え圧倒する者 ヒーローとは如何なる時にもピンチに駆けつける者 それが時代の寵児ヒーロー(堀越耕平、2016、19)

言ってしまえば、「ヒーロー」とは、異常な人物であるともいえるでしょう。考えるより先に身体が動き出すというのは、ほぼ無理というか、現実に本当にあり得ることなのかと疑ってしまうくらいに、日常茶飯事には起こり得ないことです。このように、「ヒーロー」というだけでも、ある意味では狂気的な性質を兼ね備えている人物なのでは思うのですが、緑谷出久ないしはオールマイトは、この狂気のその先へいくものなのではと考えます。

緑谷出久が目指すのは、ただの「ヒーロー」ではありません。彼が目指すのはあくまでも「ナンバーワンヒーロー」。つまりオールマイトのような平和の象徴としての「ヒーロー」なのです。それに加え、「ワン・フォー・オール」の継承者ということまで背負わなければならないので、なかなかに重い位置に彼はいます。

緑谷出久、或いはオールマイトという人物は、非常に極端なのです。というかそれでこそ漫画の作品たり得るのですが、特に緑谷出久は極端な人間だと言えるでしょう。しかしながら、むしろその極端さ、ステインが抱くような狂人さが、実は緑谷出久にも隠れているのではと考えます。

・助けるために

緑谷出久の行動における「矛盾」として、さらに指摘することがあります。緑谷出久は、林間学校の際、開闢行動隊によってに襲われた件から、あることを意識し始めるのです。それは、「自分も無事でいること」。助けられなかったという経験をした原因が、自分にあったのだと感じ、そこから自分も無事で、そして他人を助けるようにすることが、彼の中で重要な軸となったのではと思います。

「HEROES :RISING」の最終決戦において、彼は他者を助けるために最大限に尽くします。ワン・フォー・オールの譲渡が、そのことを表していると思います。他者を助けるための、「勝つ」という行動が、そこでは優先されてはいますが、「自分も無事でいること」には焦点が当てられていません。その場で傷つかないということ以上に、彼がヒーローへの道を断つという意味で、彼は行く末「(ヒーローとして)無事でいる」わけではないのです。

いわば彼は、自分で学んだものを打ち捨てているかもしれないんです。自分が無事でなることがないことを敢えて選択するということは、それはある意味で、他者を助けることを放棄していると言えるかもしれません。他者を助けようとしていますが、それとは逆の行動を取っているように見えるかもしれません。

しかしワタシはそうは思いません。彼は、「自分が無事でいること」を別の方法で達成しようとしているのだと思います。それが、ワン・フォー・オールの譲渡です。彼は、「託す」ことによって、その矛盾を乗り越えようとしているのではないかと思います。ワン・フォー・オール九代目である緑谷出久の意志、紡がれてきた義勇の心を、爆轟勝己という人物に託すことによって、彼は「自分が無事でいること」を、疑似的にではありますが、未来に「自分が無事でいること」を少しでも残そうというか、そのような形で人を助け続けようとしたのではないでしょうか。緑谷出久は、「ヒーロー」としてだけではなく、ワン・フォー・オールの継承者として役目も、きっちりと果たしていると感じます。


ヒーローとは

では改めて、「ヒーロー」とはについて考えてみましょう。予想としては、その内実としては、「きれい」には見えない者なのではないかと思います。僕のヒーローアカデミア第三期第49話「ワン・フォー・オール」の冒頭において、後のオールマイトになる、八木俊之(やぎとしのり)青年が、師匠である志村奈々(しむらなな)にこんなことを言うのです。


平和の象徴。この国から犯罪が無くならないのは、国民に拠り所が無いから。頼れる柱が無いからです。ですから僕がその柱になります。


それにこたえ、師匠である志村奈々は、八木俊之(オールマイト)に


「お前本当面白いな。いかれてる。」


とほくそ笑んで言うのです。僕のヒーローアカデミアという作品は、確かに王道であると評価することも出来るかと思います。師匠と弟子の関係。努力。バトルアクション。超日常の能力たち。しかしながら、どこかにいい意味でも悪い意味でも、「狂気」を感じさせるものが「僕のヒーローアカデミア」という作品であり、この作品の中の「ヒーロー」という存在なのではないかなと考えます。オールマイトも、そして緑谷出久も割と「いかれてる」のです。

「ヒーロー」とは。それはある意味ではどこまでも平和を望み、人々を助けることに執着し、守る者が異常に多い事に疑問を持たずに、現状を維持する者。いや、正確には人々の平安と笑顔を守るために、傷つけないために、狂気的な思想や努力や、自己犠牲を行うもの、つまり究極のボランティア。オールマイトや緑谷出久が目指すのは、「国の柱」です。水柱ならぬ、国柱なのです。そのような狂気的なボランティア、奉仕活動者こそが、「ヒーロー」なのではないでしょうか。

ヒーローになる道を自ら断つもの、ヒーローであろうとしないというその姿勢がヒーローという極端な狂気さが、意外にもヒーローの本質であり、綺麗ごとで、潔く決めることが出来ないことなのだと思います。

ヒーローとはまさに狂気であり、それに憧れてしまうような人間もまた(単純なパターン化をするならば)ある意味では狂気じみているのかもしれません。ということは・・・


緑谷出久:エンディング

僕のヒーローアカデミアという作品では、「緑谷出久:オリジン」という回はあっても、「緑谷出久:ライジング」という回はありません。そこで私はこう思いました。「僕のヒーローアカデミア HEROES RISING」という映画は、緑谷出久を含めた(すでにライジングという回はありますが)子たちの「ライジング」、「緑谷出久:ライジング」でもあり、「麗日お茶子:ライジング」でもあり、「青山優雅:ライジング」でもあるという風に、一年A組そのものとしての「ライジング」だったのではと思います。

そして同時に、これはあるいみ、「緑谷出久:エンディング」でもある。緑谷出久という有精卵が、ヒーローになるという道を自ら断つという、最終回的選択肢を持つ「エンディング」。緑谷出久の「オリジン」「ライジング」「エンディング」という多重の段階を描くことによって、結果的に僕のヒーローアカデミアという作品にメリハリを持たせ、生徒たちの「ライジング」というものを引き立たせているのではないでしょうか。

ある意味では、「僕のヒーローアカデミア HEROES RISING」という作品は、僕のヒーローアカデミアという作品の最終回とみなすことも出来ます。(堀越先生もそう述べています)緑谷出久もまた、継承という偶発性に巻き込まれた、託されたものという受動的存在ではなく、継承する側、思いを託すという側に立っている人間なのだということをひしひしと感じました。本当の意味で、最終回ということではないとは思うですが、緑谷出久という人間の、或いはデクというヒーローの「エンディング」がたしかにあるのだという哀しさと、そこまでにたどり着くのかという不安を感じさせる映画であったと思います。

映画をまた見る時には

この映画を見る時に、正直、引くくらいにキモイを思われかもしれませんが、注意事項を書いておこうかと思います。

1.僕のヒーローアカデミア第一話(アニメの場合は一話と二話)を見返すこと。全部見逃さない!

2.僕のヒーローアカデミアの11巻のオールマイトとオールフォーワンの神野戦を見え返すこと。特に最後!

3.僕のヒーローアカデミアの林間学校偏(特にマスキュラーと緑谷出久の戦闘と、かっちゃんをめぐる攻防)を見返すこと

4.僕のヒーローアカデミアの必殺技を編み出すシーン(11巻)を見返すこと。

5.お手洗いには絶対いっておき、映画から目を離さないよう努めること。

6.複数人で見てももちろん構わないが、一人で見ることを勧める。

7.涙を拭く用意を何かしらしておくこと。

8.映画を見たことがある人は、映画を見た記憶を消すことを勧める(可能であれば)

9.泣きすぎて顔がブスになっても構わない覚悟をすること。(「うわぁすっごいブスだねぇ」と言われる恐れを考慮すること)


最後に

今回は、「僕のヒーローアカデミア HEROES RISING」の魅力を伝えるべく、既に映画を見た人向けに記事を書いてみました。いわゆる消費者生成コンテンツ(UGC)であることには変わりなく、僕のヒーローアカデミアの作者でもなんでもないありません。ただの素人。言ってしまえばまだまだ子どもです。しかしながら確実に、緑谷出久たちから年齢が離れていくことに少しばかりの哀しさを覚えますが・・・。あぁー……

「僕のヒーローアカデミア」という作品は、どこか遠いところにあるように見えながら、意外と近いところに現れ得るものだなと感じています。もし現実世界に、個性やヒーローというものが生まれたら、こうなっているかもしれないという仮想世界を、その醜さと、綺麗なところも含めて、本当に細かく描いている作品だと(勝手に)感じていますし、また本当にこんなにカッコい人間がいたなら~と、希望と絶望を味わわせてくれるものであります。

ちなみに、ワタシは「僕のヒーローアカデミア」という作品自体に関してはそんなに詳しくはありません。いわゆる「オタク」のように、過剰に僕のヒーローアカデミアについての情報を持ち合わせているわけではありません。ただこの作品を語ったり、書いていたりすることが、楽しくてたまらないだけです。これほど、タノシイと感じさせる作品はあまりないと思います。その裏返しかは分かりませんが、僕のヒーローアカデミア以外のあらゆる作品について、これほど語ろうと思ったことはありません。僕のヒーローアカデミア以外は、「ふ~ん」という感じです。


そして!そして!!!!

僕のヒーローアカデミア、映画の第三弾が公開されるやもしれないとう超超超吉報を得ることが出来ました!!!。このことだけに関しては、情報の伝達速度が異常に速い情報社会に感謝ですね・・・。

一体どのような内容になるのか。主人公や他のキャラクターは、どのような成長や挫折を経験するのか。そして、「ヒーロー」とは。「正義」や「悪」とは。そういったことについて考えさえられる機会を、また得ることが出来そうなので、非常に楽しみであります!

それでは、少し一万字をplus ultraしてしまったので、終わりたいと思います。




今日も大学生は惟っている。


参考・引用文献

長崎健司(黒田洋介)(2019)『僕のヒーローアカデミア HEROES:RISING』[DVD]、原作:僕のヒーローアカデミア、東宝株式会社

堀越耕平.2014.僕のヒーローアカデミア1 緑谷出久:オリジン.集英社

堀越耕平.2016.僕のヒーローアカデミア9 僕のヒーロー.集英社

堀越耕平.2016.僕のヒーローアカデミア10 オールフォーワン.集英社

堀越耕平.2016.僕のヒーローアカデミア11 始まりの終わり 終わりの始まり.集英社

堀越耕平.2018.僕のヒーローアカデミア18 明るい未来.集英社

堀越耕平.2019.僕のヒーローアカデミア vol.R.集英社

堀越耕平.2016.僕のヒーローアカデミア公式キャラクターブック Ultra arcaive.株式会社集英社



参考にした以前の記事


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