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レジャーランド化する日本~死ぬはずの奴が生きてる社会~


レジャーランド化

数十年前の大学は、「レジャーランド」化している揶揄されていやようで。ところで今は、「就職予備校」と言われているようだが。次は一体どんな風に言われるのやら。

かくいうものの、

私は、この日本自体が、いやもしかしたら世界が、「レジャーランド」化しているのではないかと思っている。

なぜこのように思ったのかというと

このような記事があったからで。👇

「レジャーランド」化しているということは、生物としての本来の在り方から逸脱していることだとここでは仮に定義しておくよ。

この点についていえば、学問研究する研究機関であるはずの「大学」が、スタバだの、コンビニだの、体育館だの、挙句の果てには、「大学は遊ぶところ」という、本来の目的から逸脱しているということが、「レジャーランド」化しているということだろう。


生物

生物とは生きる物のこと。

生きることが手段であり、生きることが目的である。(人間の場合、ここに「どう生きるか」という問題が倫理的な代物が関わってくるから厄介なんだよねぇ)

レジャーランド化する日本ないし世界は、

この本来の「生きる」目的から逸脱している。

例えば、民主主義。例えば、平等。例えば、平和。例えば、公平。そういうものが、人間が生きるのを甚だしく困難なものにしていると、あなたは考えたことはないだろか?

先ほどの、参考した記事は、「童貞」についてである。

「童貞」「童貞であること」は、どうしてか違和感を持って捉えられたりしがち。これこそ、「レジャーランド」化している世界の病理。

ここで引用。

一夫一婦制が登場する以前、男は上位10%ほどしか生殖しなかったとの説があります。つまりは9割童貞です。しかしこの状態だと男が殺し合ったり、童貞が去ることで群れが小さくなり他のグループとの競合に敗れるなど、不安定であったと考えられます。人は知能が発達しルールとして一夫一婦制を導入することにより安定した社会を手に入れたのです。ここから考えられることがあります。一夫一婦制の情報は遺伝子には入っていないのではないかということです。童貞のためにルールとして導入され、進化でそうなったわけではないからです。すると恐ろしいことが浮かび上がってきます。遺伝子的には9割が潜在的童貞…女にとって9割の男は嫌悪対象ということです。一夫一婦制により9割の女は負の性欲を感じながらもしかたなく番っているのです。女にとって男が殺し合っていない現在の社会は、童貞のために作られた歪な形態である…このような社会の捉え方をホモ・ソーシャルと呼びます。言わば社会全体が、負の性欲の対象ともいえますね。 出典:なぜ童貞には人権が無いのか~宇宙からみた童貞~

一夫一妻制とは、民主主義や近代化のいよいよ本格的な成立に伴って現れたものではないでしょうか。つまり、平等や公平、均質化、同質化、効果効率性を求めた時代に現れた存在。

ということは、男女が平等に、お互い結婚する、性交渉をする、親しくなるという考えや現象は、極めて特殊な代物だと考えられるのではないでしょうか。逆に今の社会形態以外のものが正常というわけではありませんが、少なくとも今の社会形態・思想は、「正常」と言い切ることは難しいのではないでしょうか。

引用文の「一夫一婦制が登場する以前、男は上位10%ほどしか生殖しなかったとの説があります。つまりは9割童貞です」「遺伝子的には9割が潜在的童貞…女にとって9割の男は嫌悪対象」「女にとって男が殺し合っていない現在の社会は、童貞のために作られた歪な形態」、これらが今の社会のほぼすべてを物語っているような気がしたり、しなかったり。

「童貞でいることがキモイ・違和感を感じる」。この感覚は、生物的に正しいのであり、同時にこの社会が平等という言葉を使い、誰もが自由にできる(特定の節度内で)、誰もが自由に人間関係を構築できる、という現代の病理に起こされた人間の言う事です。つまり私たちそのものです。

今生きている人間の祖先は、確かに童貞や処女でありませんが、それイコール今までの祖先の全員を指していない、ということは火を見るよりも明らかでしょう。

今生きているのは、性交渉した祖先がいるおかげですが、性交渉を行っていない祖先?がいないということにはなりません。

引用文の通り、男性の9割が、童貞のまま死んでいくのが、生物の在り方、淘汰の在り方、進化に要求されるものだとしたら、やはり現代社会は「異常」「レジャーランド(逸脱)」としか言いようがありません。

「童貞が奇妙奇天烈」という考えの裏には、「誰もが童貞を卒業できる」というアリもしない公平世界仮説にとりかれている証左ではないでしょうか。

というか本来は、「童貞」はすぐ死ぬはずなのではないでしょうか。童貞であることは、子孫繁栄のための個体としては、欠陥となる要素を持ち合わせている個体が想像できます。そういう個体は、共同体になじむことが出来ず、孤独に死ぬか、集団を守るために捨て駒となる道しか残されてない。

もちろん優れた個体の子孫だけを残すことが、生物の目的としては理にかなっているのですから、優れた個体の遺伝子同士があれば、童貞は必要ないということです。

童貞は、必要悪みたいなものでしょうか。優れた個体が生きるための、使い捨てのコマ。アリで言う働きアリ。一時的に必要となるための、消耗品。言語表象能力が優れているのなんだの言っても、結局人間は生物であることを辞めない限り、子孫を増やし続ける。その在り方が、現代社会において、少し異常。


人間


ところが、現代では、しんでいるはずの童貞が生きています。これが民主主義に負う所であります。人間という動物としての生や欲求に縛られることのない生物は、「童貞」という圧倒的なディスアドバンテージを、ほぼ亡きものとすることを可能にする。

「レジャーランド」化

本来の目的からは逸脱し、全くことなる、真逆の様そうを呈すもの。

むしろ、(本来ならば)童貞という遺伝子として劣っている個体が、子孫を残すことが出来る分、生物としては大分間違った選択をしていると考えることもできるのかもしれない。それが現代の恐ろしいところかもしれない。


ヒトと人間


人間は人間らしく生きることが出来る!自由に生きることが出来る!。民主主義という視点から見れば、さぞ素晴らしいことだろう。

でもそれは、遺伝子の深化・進化という観点から見れば、そうとは言えないかもしれない。玉石混交。本来なら優れているはずの遺伝子が残るはずなのに、そうではない。人間は生物としてとことん劣っていくのだろうか。

そうだ。

「ヒトとして生きること」と「人間として生きること」は、矛盾することなく存在することは出来るのか?

無理だろ? 無理かな? 無理なの?

少なくとも言えることは、現代社会は「人間として生きること」に重点が置かれているかもしれないということだ。

でも行き過ぎると、「ヒトとして生きること」すら、存続できなくなる。では、「ヒトとして生きること」を突き詰めていく、遺伝子を優秀にすることだけを目標にするのなら、平等だの、理性だの、権利だの、ごちゃごちゃとした問題が出てくる。

同性愛、アセクシュアル、アロマンティック、バイセクシャル、ハンディキャップ、etc...。生物の中に出てくる、異常(と見なされる)個体。間違いなくこれらは、遺伝子の優秀化、劣等遺伝子の淘汰と、対立する。

人間のあらゆる多様性を認めることは、生物的な人間と知性的・精神的な対立を引き起こす。


ああ

「ヒトとして生きること」

「人間として生きること」

はどうしたって、矛盾してしまうのだろうか。


童貞は、生物としては異常じゃない。ならそれを異常と見なすことが異常なのだろうか。だとしたら、異常でないと認めて、なお童貞という個体が生きていることは異常なのだろうか。処女だってそうだ。もしかしたら、童貞と同じく「死に役」を担う方が、生物としては適しているのかもしれない。それは生物の種としての反映に寄与するのかもしれない。


人間が自分の自由を求める先には、一体何がある?

ジョセフ・G・ニュートンみたいな、優れた人間?

人間の平等を実現した、反生物的な人間社会?


いや、多分なにもないな。

あったとしても、きっとひどく歪んでいるなにか・・・だろう。

ったく本当に、この世界は矛盾だらけだなぁ




今日も大学生は惟っている。




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マキャーネルの「演出された真正性」、ブーアスティンの「疑似イベント」、ボードリヤールの「シュミラクール」を意識して書いたやつです。(後付けです。はい。書いたらたまたま似てたってだけです。)私なりの真理です。


以前書いた記事です。生物進化学の本を読んで、思う所があったのですが、この「レジャーランド化する日本、いや世界」という記事の考えと似ているものです。

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