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またしてもやられた

上手くいかない。届きそうにない。いつも読んでいる方のnote(ここでは名指ししないが)を読んでいると、いや或いはただ目を上下させているだけかもしれないが、ワタシはただの傍観者であることを辞めざるをえなかった。まさにその文章を読んでいる人に、その読者になってしまっていた。ワタシは、その文章のいう「アナタ」であると思ってしまった。

似たような性格だからかもしれない。しかし、所詮はネットの情報に過ぎないから、性格が似ているはずがないとしておこう。だが、一瞬、ワタシはその文章を読んでいる人間なのだということを感じずにはいられなかった。贈り先に、ワタシは選ばれたような気がした。内容などはどうでもいいし、巧拙は問わないし、正当性なども関係無い。その読み手であると意識させられた時点で、してやられたと確信したのだ。

ワタシの文章には、「今この文章を読んでいるアナタ」或いは「贈り先」というものが感じられない。「「本を贈る相手」の存在」という記事で紹介した、ホモ・ルーデンスに書いてある「Uxori carrissimae」(これはすこ~し具体的すぎるかもしれないけれどね)のように、ワタシの文章はどこかで独白の要素を持ち合わさざるを得なくてなっているようで。確かに、忘れないために書いているのと言ったことがあり、まさに「note:メモ」と化している節があるから、ワタシの文章に、これはアナタ宛てですとというものが感じられないのは、不可抗力なのかもしれない。

嫉妬心は、いかなる感情か。それは、憧れとどのように異なるのか。高社会的感情と形容したところで、ああそうかよと口にするほかない。嫉妬らしい嫉妬を、大してしてこなかったものだから、よく与り知らないところもあるが、嫉妬もある程度は必要なのかもしれないとは思う。感情は、自己向きのものと、他者向きのものがある。いや、どちらかで分けることもおこがましいだろうか。「またしてやられた」というのは、嫉妬でもあり、憧れでもある。そのように出来ないことへの焦りというか、自分自身の不能感というか、まぁ典型的な他者との比較による自己嫌悪だ。ミードになぞらえて云えば、「I」と「Me」がうまく釣り合ってはいないということだろうか。

しかし

珍しくね。珍しく前向きに考えてみれば、ワタシはまだまだ不十分だということだ。ワタシはいわゆる第一志望をめざず競争において、この方まだ勝利をおさめたことはない。そこでは、不十分だったという感が残っている。しかし自分の目標を達した時に出さえ、不十分感が残る。

何故か?

それはその目標の高さが、案外低かったからだ。上手くいくときは確信する。しかし要はそこで特にすることはなくなってしまうのだから、達成感や十分!と思えるものがない。振り返ればこの人としての生、少年ジャンプのように、本気で取り組んで、途中無理だと思ったけど、達成をしたという経験がない。達成したとしても、それはおそらくイージーゲームだったのだろう。だが不思議な事で、上を目指したいとおもう領域には、必ずすごい人間がいる。もしかしたら、競争がニガテなのかもしれないと思うことさえある。生物として、競争において弱いというのは、大問題ではないかと。人間は動物そのものではない。しかし生物という点においては、人間に心地よいように作り変えられた環境の外にある自然にいるあらゆる生物と一緒だ。そんな彼らは、競争を日々行っている。競争こそ、生命なのだと。

してやられた。何故悔しいか。これはもう、生物として避けることは出来ない宿命とすら感じる。どうせなら、先ほどちょろと書いたホモ・ルーデンスから引用すんぜ。

闘技的形式がもつ同質性の最も適当な説明は、常により高いものに向かって努力する人間性そのものの中に潜んでいる。(ヨハン・ホイジンガ、2018、139)

常により高いものへ。それがいかなる人間にも潜んでいるとしたら、停滞はどれほど退屈なことか。高度経済成長期は、その人間の性質が如実にあらわれたのかもしれない。どれだけ経済が停滞しようと、若者に阿保みたいにひどい未来が待っていようと、生れてくるかもしれない子どもには絶望でしかないような社会においても、高齢者も生きづらい共同体でも、依然人間は高みを目指すのか。一体どこで。キリスト教みたいに、思想において、弱者と強者を転倒反転させてみせるか?ネットやVR空間で、現実では得られない名声や富を得てみせるか?それとも、自分自身の肉体を鍛えてみせるか?方法は色々あるだろうが、それらは全て随分使い古された手ではないだろうかと考えてみる。

書いてくると、結局これ誰宛ての文章なんだよとなってくる。

話しがすぐ脱線する。LINEの製造元が韓国でユーザーは情報を抜き出されるらしいとか、はたまた宇宙や銀河はどうなっているのかという話のふり幅が広すぎて困った8年くらい前の中学生の時を思い出す。

感情

最近は養老孟司さんと、宮崎駿さんの「虫眼とアニ眼」という本を読んで、憎しみや憎悪が大して不自然じゃないことだと、ちょっと安心しました。

宮崎 人間嫌いというのが、世間の現象としてあるのは感じますけれど、自分のなかにもそれが時々噴き出してくるのがわかることがあります。機嫌が悪いわけじゃないと思っていたのに、前の車の動きにすぐカーッと頭に来たりして、速く曲がれよとかね。〔中略〕憎しみが毛穴から、噴き出してくる感覚を何度も味わってきました。(宮崎駿、2008、118)

「してやられた」も、一種の憎悪かもしれないとも思った。どうしてワタシはこんなにダメなのか。ああそうですね。生きているだけで素晴らしいなんて、マルクス・アウレリウスだか、アドラーだとか言っていた気がするが、それは特効薬ではない。結局、比較という病理(?)からは逃れることが出来ないのだと惟う。人間世界が拡大しすぎて、もう樹海とか、深海に逃げるしかないんじゃないかと思うくらいにね。ワタシはそういう環境に生まれた。環境だけが総てでは無いけれど、環境を無視することは難しい。

作品を作るという一種の昇華が、これからの人間に求められるような気がして。比較する意味も、比較する対象も、或いは同一化する対象すらまともにない。アイデンティティの穴を埋めるかのように、「流行り」「ブーム」「軽チャ―」が再生産される。あーーーーーーーー。また話がそれた。

これ、誰に向けて書いているんだろう。そう。最近、決めつけることに身の毛がよだつような悪寒を覚える。決めたとて、誰とも共有できるわけないんだから。なんだこれ。論理的な文章が必要な大学のファイナルレポートの反動というほか、まともな答えが思いつかない。なんだか文章がかしましい。論理的にって、とても難しいね。





今日も大学生は惟っている


引用文献

養老孟司,宮崎駿.2008.虫眼とアニ眼.新潮文庫

ヨハン・ホイジンガ.2018.ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み.(里見元一郎訳).講談社学術文庫



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