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2020の変遷の振り返り

一年間こういうことがあって、こういう感情がわいて、こんな感想で、来年はこうかなという一年の出来事(あったこと/ル・レエル?)振り返りはよく見る。でも一年間こんなことを考えていて、こんな思想や思考の転換があって、こんな(思想における)自己破壊や有限化があって、価値体系がこんな風に変化したというのは、なかなか見ない。(なぜだろう←それを考えろ)

ワタシが探せていないだけかもしれませんが!

ということで、去年(2020年)に、どのようなことがワタシの頭に漂っていたのかについて、影響を受けた方の名を連ねながら、書いていく。

なるべく時系列順に書いていきたいが、記憶があいまいなこともあるので、ご容赦ね。


真理への欲望 20201月くらい

大学で哲学の講義を受けてから、「哲学」への興味が湧きに沸いて仕方がありませんでした。大学の講義は哲学そのものよりも、哲学史を扱う感じだったので、もっと知りたいなと感じて、ここから一年を通して、哲学にのめりこむ羽目になってしまいます。(あらあら)

トルストイや木田元の「反哲学入門」、「語源で分かる哲学」、「歩行する哲学」、「ヨーロッパ思想入門」、「現象学は〈思考〉の原理である」や、中島義道さんというカント専門の哲学者の著書も読み漁りました。とにかく、色々なものを見てみようという感じだったのでしょうね。また、ニーチェの「道徳の系譜学」という本は、何故読もうかと思ったのかは分かりませんが、ワタシの善悪の価値観を大きく変えるようなものでした。

2020年、ギリ大学一年生だったワタシはとにかく、「誰もが救われるような真理」を探していました。今思えば何しとったんて感じですが、トルストイの人生論を読んで、真理が無いんだという考えへの反抗として、「いやそういうものがあるかもしれない」という淡い期待を抱いて、より哲学の本をあさるようになりました。いま思えばこれは、どうしようもないという閉塞感や人間の不義や不合理不条理を、ワタシが受け止めることが出来なかったことの表れなのだと思います。神なんてある意味存在してはいないんですがね。

「私」の所在 20201月-12月

「私」とは誰かということを気にしていたのが、2020年の前半であった気がします。この時は、「言葉」って何だろうということも考えだして、アイデンティティと言葉を行ったり来たりしながら、答えを探していたような気がします。

そしてだんだん、「私」というものが、非常にアヤフヤで、離人症的で、非存在的なものだと知るようになります。これは、哲学の本に限らず、本当に多種多様な本を繙いて、そこに一貫している言葉を頭の中で組み合わせいった結果出来上がったものだと思います。「私」というのはむしろ、「私である」という肯定よりも、「私ではない」という否定や(鷲田清一さんの影響)、他者の写し鏡(ラカンの鏡像段階の影響)的な相対的な判断によってしか成り立たないということを、2020年9月ごろから意識するようになりました。(実はこの時期から、ワタシの文章で変わってる部分があったのですが・・・。)ここからちょっと気分は下げ下げでしたね。ハハハ

真理への欲望❷

真理を求めようと、まず始めたのは、専攻(正確には所属している学部の学問)とは関係のない分野の本を読むことでした。宇宙や、江戸時代の暮らしや、日本語や、歴史(サピエンス全史/銃・病原菌・鉄とか)や、動物保護(動物の権利、ピーター・シンガーとか)とか、日本の若者や、物理学・歴史学・宗教学・法学なども、とにかく読みました。読んで読んで、まとめて、不図思うことがありました。それは、好奇心というか、どこまで本を読んでもキリがないのではないかという予感でした。

これに関連して、千葉雅也さんの「メイキング・オブ・勉強の哲学」から、引用したいと思います。

勉強とは自己破壊であり、そこには変身することへの不安がつきまとう。さらにその次の段階に進むと、世の中のすべての物事を勉強しなきゃいけないのではないかという不安がつのってくる(千葉雅也、2017、60)

まさにワタシは、この現象に陥ってしたのだと思います。色ーーーーーんな本を読んで、あまりにも自分が無知であるというか、学問の分野の広さに驚いたのでしょう。そしてその中で、自分自身の矮小さを噛みしめたのだと思います。しかしこの「全知全能・無謬でなければならないことへの強迫観念」を感じたのは、大学二年生になってからです。(逆に言えば大学一年生の時は、それほど勉強に身が入っていなかったということでしょうか。)

見事に不安に駆られたワタシは、無謬であってはならないということと、日本の大学生があまりにも本を読んでいないという調査結果を偶然にも目にし、よし本をとりあえず読もう!となります。ハーバード大学の学生が四年間で平均で1000冊読むということをどこかで知ったので、人文・社会・自然科学の三分野で、より細かい分野でそれぞれ65冊読まないといかんという計算をして、本を読むことにより熱中していました。無知であることへの恥がただただ心のなかに居すわり続けることの原因でもあります。


矛盾に対して 20208月-11月

2020年当初までのワタシと比べて大きく変化したことは、「一貫性を求め無くなったこと」「偶然性を受け入れようと思った事」だと感じています。それまでワタシって、人間は一貫性を保たねばならないという意味の分からないことを信じていました。これは2020年の3月くらいに読んだ、カントについての思想(定言命法、道徳論)の影響だったのだと推測します。(ちょうど、カントの専門の中島義道さんの本を読んだ時だったかもしれません。)

誰もが納得するような道徳の律を求めようとしたのは、実は真理を求めていたことの表れだったのかもしれません。人が救われるための真理を、人の一貫性に変換して考えていたのでしょうか。実に非合理てk。

そこで、きっかけとなったのが、西島佑さんの『「友」と「敵」の脱構築 感情と偶然性の哲学史論』という本です。ジャック・デリダの脱構築の影響が大きい著書であったと思います。また、この本に関連して、木田元さんの「偶然性と運命」という本を拝読しました。これらの本に影響され、「人間に一貫性を求めるのは辞めよう」「矛盾こそが人間なんだ」「人間を枠に当てはめることはちょっと変かもしれない」「人間は簡単に理解できるものではない」と思うようになりました。ヒロアカの飯田天哉くんが、マニュアルの事務所でのインターンで、「柔軟さ」を覚えたように、ワタシも少しづつ柔軟性を取り戻すきっかけだったの思います。


人間の関係と他者

2020年の最後らへんは、「エマニュエル・レヴィナス」や「ジャック・ラカン」の影響を受けます。無くなってしまった「私」や「主体性」について、これからどう考えればいいかということに終始していました。「私」などいない。「私」は他者でしかない。「私」につけられた名前にも、特に意味がない。(「名前の哲学」を読んで)そういう自分の環境依存性に嫌気がさして、自分という「無」を受け入れなければと考えるようになりました。

先ほど紹介した、『「友」と「敵」の脱構築 感情と偶然性の哲学史論』には非常に印象的な文章があります。

だれもが自分が望む「友」を欲しがるが、その「友」とは理想化された自分自身でしかない。だから「友」は、人それぞれに、好き勝手に解釈されることになる。(西島佑、2020、56)

「友」はある種の「自分」である。今まで、「他者」とどのように渡り歩いていけばいいのかという風に考えてたワタシを破壊する文でした。そしてワタシは、「自分」とは「他者」でしかないというふうに考え、ということは、世界には、「自分」も「他者」もないという、人間の主体性の欠落に行き着きました(ある意味で構造主義的でしょうか)。ここである意味ワタシが死んだ瞬間でした。しかしその欠落は無意味ではな気がしました。

そこで、主体性の無い世界で、改めて「主体性」とは何かについて考えるようなりました。ここで、「他者」とは何かについての独自の考えを書こうと決めた遠因でもあります。それもあり、精神的な病理を歴史や哲学として捉え直したレヴィナスや、ラカン、「マルテの手記」を書いたリルケのことを気にするようになりました。「生まれてこないほうがよかったのか」にある、「ヤージニャヴァルキヤ」という方の考えに、共通するものがあって、東洋も西洋のどちらにも、似た考えをするのだと感じる契機にもなったのが、「主体性」や「私」についての疑問です。


この世の見世物 202010月?

現代のほぼあらゆるものが、脊髄を抜かれたようなものであるのかもしれないと思うようになりました。これは秋学期に受講している講義も影響しているかもしれません。観光や音楽、伝統、料理、とにかくあらゆるものが本来んの文脈から脱却しても見せられているのだと、ちょっとずつ思うようになりました。グローバル化や、均質化する世界、どこに行っても同じ世界、インターネットの世界、観光用に再構築されつつある世界。そういうものに恩恵を受けているはずなのに、失われたものが多いのではないかという、勝手な喪失感を覚えました。(実に本質主義的ですが・・・)

造られたイメージ。操作できるイメージ。宣伝用のイメージ。おなじようなイメージ。中身などどうでもよくて、ただの肉塊と記号だけを人間は目にしている。自分の感情至上主義。楽しければそれでいい(これはどう考えよう)。過剰な記号消費。世の中のあらゆるものが”なんとなく”嫌になってしまったのが、2020年がもう少しで終わろうとしている時でした。(ある意味では、2020年の最初の頃にもどってきてしまったのかもしれません、違う形で。)終わらない日常。日常という暴力。逸脱の無い世の中。日常というレベルで解決せねばならないという、日常という存在の圧力がどんどん膨れ上がり、ジャン・ピエール・デュピュイの「形而上学的傲り」という言葉が、頭から取れなくなってしまいました。

今は、これらの事柄について、構造化出来るようちょっとずつ頑張っています。


遅さを愛する/医学的モデル

これも大学の講義の影響が大きいですが、いわゆる便利でないもの・邪魔だと排除されてしまうものに目を向けるようになりました。2020年の10月くらいだったでしょうか。そのころ、障がい者に関連する本を読んで、医学モデルという概念を学びました。ちなみに「医学モデル」とは、塙幸枝さんによれば

障害を何らかの原因によって生じた身体的・精神的な「欠陥=インペアメント」(impairment)であると捉えることは、おそらく多くの人にとって違和感のないもの〔中略〕障害を医療の範疇に位置づけ、それを治療の対象としてみなす特徴を有することから、ながらく「医学モデル」と呼ばれてきた。(塙幸枝、2018、34)

と指摘されています。ここから、この世には事実などはなくて、ただ解釈ばかりがあるのだということも痛感しました。邪魔だとされているもの・弱さ・弱者・ノイズ・遅さ・不便さは、その時代が規定してしまうかもしれないと思うようになりました。これは、先ほど書いた矛盾に対して 20208月-11月という項目に関連してくるかなとも思います。何かを決めつけること、枠に当てはめること、或いは理解することそのものがおこがましという考えにまで至ってしまった原因でもありますね(笑)

しかし判断しないというわけにもいかないので、一般的な理解をとにかく疑うとか、「それは偏見中の偏見に過ぎない」というアイロニーをぶつけるという方向に変換しました。このおかげで、誰かの意見に対して心の中で「ちょっとそれはコテコテ過ぎない?」という感情がわいてくるようになりました。根拠があるのかや、他の意見についてどう考え、なぜ他の意見を採用していないのかといったところでしょうか。疑い方を変え、良い悪いという発展性の無い質問の仕方を変え、もう少し柔軟に考えるようにシフトすることが出来たのだと思います。これは、本だけでなくて、大学の外での学びに由来するものでした。(あまりまとまっていません)


↪まとめ

とまぁこんな感じで、2020年の変遷(考えや価値体系)を、ちょろっと見てきました。これが全部であることではないですし、これらが正しいということでもありません。またもしワタシの記事を読んでいる方がいらっしゃれば、あの記事はこの考えの現れだったのかも・・・と、本の少し勘づいてくれるかもしれません。色んな名前や本の名前や考えがちらばっているだけの記事かもしれませんが、大学生が考える事と、色んな人の意見に触れて変わっていく大学生の価値体系の一年の間の変化の一例として、残しておこうと思いますね。




今日も大学生は惟っている



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引用文献

千葉雅也.2017.メイキング・オブ・勉強の哲学.文藝春秋

西島佑.2020.「友」と「敵」の脱構築 感情と感情と偶然性の哲学試論.晃洋書房

塙幸枝.2018.障害をめぐるコミュニケーションを拓く.新曜社



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