father and mother I lament you
以前どこかで書いたかもしれないが、「family」という英単語は、「father and mother i love you」という単語の羅列の、それぞれの文字の単語の頭文字をとったもの。だとか。
ほぉ。
随分と穿った見方というか、傾いた視点の籠められている英単語なのだなと感じるのだけれど。というのも、「love」の対象が「father」と「mother」になっていることが、「family(家族)」という単語を構成していることは、ある意味では「包摂と排除」を含んでいるのではないかと考えられるからということ。
つまり、「family」は、「(the) family」ではなく、「(a)familiy」であって、しかしそれをあたかも「(the) family」であるかのようにしているだけではないかと、疑っている。
そして、「be familiar with ~」というイディオムの訳は、「~に詳しい」というもので、つまりはそれに近しい・親しいというニュアンスが内包されている。対して、「unfamiliar」という、否定の接頭辞(prefix)がついた場合は、「詳しくない」という訳になるので、近しくない・親しくないという意味合は現れてくるような気がする。
しかし、妙だ。「近しいもの・親しいもの」の中に、「家族」は含まれているかもしれないが、「家族」の中に、必然的に「近しいもの・親しいもの」があるというのは、つまり「家族」というラベルを見たときに、それが「近しいもの・親しいもの」を同一視(必然視)されるのは、いかがなものかと感じる今日このごろなのですね。
個人的には、「family」は「Father and mother I lament you」という要素を含んでいるものであるとも思う。(これはルース・ベネディクトの影響かもしれない。)
「love」だけが、家族ではない。「lament」もまた家族であるはずではないか。大切だと感じる反面、とてつもなく憂え哀しみ、憤慨し、挙句の果てに殺そうかと思うことがあるのも、なんら不自然ではないと思う。(現実は、おとぎ話ではない。ディズニー映画の見過ぎかな。でもラプンツェルはかれこれ40回以上見ているので、とても好きn)
ゆえに、「Father and mother I love you.」という表現が、「family」の省略するまえの言葉ということに違和感を覚えたのだ。百パーセント、「love」を持っていると言い切ることの出来る、或いはそんなもの以外一度も思ったことのない人間が、いるというのか。
「家族」とは、一見強いつながりというか、大切なつながりだと思われるが、それは本当にそうか。実の親でさえも、実の子でさえも、殺したくなるほど憎いと感じる時が、全く無いと言い切ることが出来るのか。
そうだとしたら、是非教えてもらいたいものだけれど。
正直にいえば、家族は、「愛憎」の塊だろう。「相愛」とか、「双愛」とか、「純愛」とか、「敬愛」とか、「親愛」とか、「恵愛」とか、そういったもので全てが語れるとは思えない。だのに、どうして人は(これは周りだけかもしれないが)、「家族」というものを、「愛」と結び付けて語るのだろうか。なぜ、「憎しみ」と結びつけないのだろうか。
一つだけの側面からものごとを見ることが、如何に危険かを知らないのだろうか。それとも、そもそも(無意識的に)「家族」から「憎悪」や「憂い」、「悲観」を消し去っているか、或いはマスメディアの情報によって、ウマ~く操られているのだろうか。
よく分からない
と
今日も大学生は惟っている。
参考文献
中西新太郎.2019.若者保守化のリアル 「普通がいい」というラディカルな夢.花伝社