見出し画像

3月からのこと(ミナト・ノート寄稿)

2020年にパンデミックが始まったのと同時に、文化庁の研修のためにドイツに入国し、その後足掛け3年あまりコロナ禍でのドイツでの生活を経験することとなった。現在はもう2025年の1月で、雪解けの後のように、パンデミック下での規制の多かった日々が遠い過去のように思えるが、コロナ前と後では世界が全く変わってしまったように思える。人それぞれ住んでいた土地によってその経験の質というのはまた異なるのだろうけど、自分にとっては2020年の当時の日々というのは、あらゆる意味で特殊な時間であり、また不思議な体験だったと思う。当時リアルタイムにその経験を日誌に記録しようと考えていたのだけど、(ベルリン・ロックダウン日誌参照)誰に向けて書いていいのか分からずに早々と頓挫してしまった。今にして思えばもうすこし続けていればよかったと思う。ちなみに日誌を書いていた時期(2020年5月くらいまで)は最初のロックダウンが2ヶ月近く続いて、感染者も減少傾向にあったために、6月には一旦ロックダウンは緩まったような記憶がある。(写真をみるとマスクをしている人がほとんどいない)その時点ではこのままコロナ収束するのだろう、という楽観的な空気もあったが、結果的にはその夏から秋にかけて爆発的に感染者が増え、それ以降ドイツは長いロックダウン下の時期を経験することになった。
当時、Minatomachi Art Table (MAT, Nagoya) の企画で、アーティストがそれぞれパンデミック下での近況を綴るという「ミナト・ノート」という企画があって自分も寄稿させていただいたので、以下に、その文章をここに転載させていただきたい。
(2025.1.4)  

:::

3月15日から1年間、ベルリンにあるクンストラーハウス・ベタニエンでの滞在制作が決まっていたので、コロナの危機が高まる中ではあったがとにかくドイツに向かった。途中ヘルシンキでのトランジットで予定していた便がコロナの影響でキャンセルとなり、一本便を早めてのベルリン入りとなった。成田からベルリンに着くまで体温チェックすらなく、シェンゲン圏内に入域する際もいつも通り滞在の目的を聞かれただけでなんなく入れてしまった。機内は比較的空いていて、しかしほとんどの乗客はマスクを着用していたように思う。その2日後の3月17日にはEU封鎖となったわけなので、ぎりぎりのタイミングでの入国だったことを後で知ることになる。
 ベルリンに着いたその日(3月15日)の夜の時点ではレストランなども比較的開いていて、室内での飲食も可、また街中を見渡してもマスクを着用している人はほぼ皆無だった。しかし、次の日になるとカフェなども飲食は外のテラス席に限られるようになった。しかし、それもつかの間のことで、みるみる店舗は閉店していき、飲食店はテイクアウトのみとなった。最後はそのテイクアウトの営業すらなくなってしまった。街中を歩く人の姿も通常よりはずっと少ないように思われたが、それでもベルリン特有の牧歌的な雰囲気はその名残をとどめていたように思う。
 22日にドイツではロックダウンが発令されて、接触制限措置、外出規制が厳格に定義されていった。スーパーの店舗内の面積に応じて人数制限が設けられて、店の前では1.5mごとに距離を置いて並ぶ人の行列があちこちで見受けられるようになった。はじめのうちはパスタ、牛乳、トイレットペーパーなどは入手しにくかったが、その状況は早い段階で改善された。しかし、生活のインフラを整える前に、日用品雑貨等を売る店が閉店してしまったので、生活においてはしばらくの間少なからず不便を強いられた。画材に関してもオンラインで購入するしかない状況ではあったが、注文しても届くのに2週間程度かかるのが常で、その上宅配業社がスタジオのスタッフがいない時間に配達に来る場合が多く、その場合は不在票などを残すようなこともなく、商品がそのまま販売元に返送される、ということが何度もあり、最終的にオンライン購入はあまりあてにならないという結論に至った。街を歩いても、ほとんどすべての店舗が閉店しており、鉛筆と紙すら手に入らない状況が何週間か続いた。

3/20 人数制限により、店舗面積が小さいスーパーは店先に列ができる。

ベタニエンはインターナショナルなレジデンススタジオで世界各地から多くのアーティストが集まってきている。それだけにレジデンスのスタッフもスタジオ内で感染者がでることを恐れて、ドイツ政府が定めた規制を厳格に守っている。到着したその日は、まだスタッフと室内で直接話すことも可能だったが、次第にそれもはばかられるようになり、メールでのやりとりが主となった。アーティスト同士集まり交流するような機会もすでに禁止されており、とにかくスタジオから出ないことが推奨された。なので、同じ階に住むアーティスト達にすら会うことなく、全くもって人に会うことのない、静かな暮らしが始まった。ドイツで生活を始めたので、通常であればまず住民登録、ビザ取得等をしなければいけないところだが、着いた時点で役所は閉鎖、ビザに関しても前もって予約していた窓口申請の予約はキャンセルとなり、ひたすら外人局からのメールを待つ他なかった。
 外出規制が施行されて、基本的にスーパーへの買い出し他、健康維持のための外出、散歩などを除いては外を歩くことが禁止となった。外国人は常に現住所の証明とパスポートを持ち歩く義務が生じた。一応、警察がチェックすることがあるらしかったが、そのような光景に出くわしたことはなかった。ニュースを見る限りは、フランスなどと比べるとドイツはまだ締め付けがゆるい方だったように思う。とはいえ、ただ外を歩くことが罰せられるというなんとも奇妙な状況となった。
 規制に従い、この期間基本的にはスタジオにこもって、外出は散歩と、スーパーに行くのみとなった。スタジオにいて、スペースも時間もあるにもかかわらず手に入った画材が鉛筆と紙のみだったのでしばらくの間は鉛筆のみでドローイングをしていた。なにか他にできることはないかと文章を書いたり、映像を作ろうとしたり、いろいろ試みるものの、やはりどこかで気持ちが落ち着かず、集中して一つのことをすることが難しかった。毎日、コロナの感染者数を確認すことが日課だったが、3月あたりはヨーロッパの感染者数が激増しており、まるでなにかのレースのように感染者数の国別のランキングが入れ替わり立ち代りしていた。ドイツは死者数こそ比較的少ないものの、1日の感染者数の増加の割合が日本の比ではなく、1日に何千人単位で増え続けていった。2週間おきにドイツの政府議会で規制の改定がおこなわれ、ロックダウンの期間も4月19日までに延長になった。4月の初めくらいは、このように行動が規制されて、閉じ込められたような状況がもう永遠に続くのではないかと思われたが、4月下旬となると、規制緩和の動きが現れてきた。5月4日に美術館がいち早く再開することが知らされた時は、明らかに日常が一気に近づいたような気がした。メルケル首相は、このような危機にこそ文化芸術が必要なのだ、という旨の演説をしていたが、美術館が開いているということがなにか平和であることと同義のようにその時は思われた。

クンストラーハウス・ベタニエンのスタジオ

3月の下旬に生活のパターンがルーティーン化し、それが数週間も続くと時間がどんどん加速していくようだった。1日があっという間で制作が遅々として進まない。他者との接触を失うことで、「時間」とは自分のみで完全に制御できるものではなく、ある程度は他者や外部、社会からの規律によってかろうじて保てていたものだったように思えた。普段から制作となると、スタジオにひたすらこもって制作することが多いので、引きこもることには慣れているとは思っていたが、なにか古いOSのまま、新しいソフトウェアをインストールしきれないような自分自身の漠然とした不具合を感じ続けるような日々だった。
とはいえ、現実的には6月中旬からベルリンにある所属ギャラリーでの個展が決まっていたので、その制作をとにかく進めないといけなかった。2016年にみなとに滞在した際にも行った路上観察をベースとしたドローイングのシリーズ「アーキグラフ・スタディ」をベルリンで実践するつもりではいたが、まず不要不急の外出が禁止されていたので、用もなく街をうろつくことは憚られた。なので、朝あまり人のいない時間に散歩したり、なるべく遠くにあるスーパーまで回り道をしながら、その道中で路上観察を行った。久々に歩くベルリンの街は、基本的にはあまり変わりがないように思われたが、グラフィティが以前よりさらに増えて、人気のない街は曇った日にはやや殺伐として映った。

3月にはマスクをしている人もほとんどいなかったが、やがては公共交通機やスーパーの店舗内でのマスク着用が義務化されると、皆おのおの口や鼻をマスクやスカーフで覆うようになった。ドイツ人は基本的にはマスクの効用を信じていなかったと思うのだが、義務化されるとマスク無しではスーパーへの入店も拒否されるので着用せざるを得ない感じであった。
また、3月当初はまだコロナはアジア圏が爆心地であるという先入観が残っていたため、アジア人に対しての差別も少なからずあった。しかしながら、感染の中心がヨーロッパに移るに連れてそういった偏見は薄れ、人種関係なくお互いが距離をとり避けあう状況となった。ドイツ人の中にはとにかくソーシャルディスタンスを厳守し、神経質なまでに距離を取る人、あるいは義務なので仕方なく従う人と、さまざまであったように思う。人に避けられ続けるという経験もこれまでになかなかないものだったが、もちろんあまり気持ちのいいものではない。なので、できるだけ外に出ないようになってしまうのだが、それもどこか悔しくて、割とむやみに散歩だけはしていた。ただ、そういった状況も規制緩和と共に雪解けを迎えた。5月になる頃には街を歩いてもお互い避け合っているようなギスギスした雰囲気は大方解消していった。

野外でグループで集まる際も、各グループおきに一定の距離を保つ原則ではあったがあまり守られているようには見えなかった。晴れた日が続き、おのずと皆が外に出だして川沿いの緑地が大勢の人で埋め尽くされている光景が見受けられるようになってくると、はじめはそれを取り締まり、一掃していた警察たちも、徐々にそれを一応監視するといったかたちにおさまっていった。
 
4月の下旬となると、店舗面積の小さい店から営業再開が許可された。同時に1〜3人しか入店できなかったり、たいていの場合は店の前でしばらく待ってから入店するのだが、それでも店で普通にものが買えるということがありがたかった。一方で、ものが手に入らないという経験も終わってみるとそれも得難い経験だったように思えてくる。幸いこのタイミングで画材屋も再開したのでようやく制作を本格的に始めることができた。
 
5月に入ってもベタニエンのスタジオ内は相変わらずアーティスト同士会えないままであったため、何度かZOOMを通じてミーティングを行うという処置が取られた。普段はアーティストの数も25人前後ではあるのだが、その半数弱が自主的に自国に戻ったり、あるいは渡欧前にEUが封鎖になりドイツに入国できなかったりと、ベタニエンにスタジオを残したまま不在の状況だった。すでに入居しているアーティストでも一度EU圏外に出て、ふたたびドイツに戻った際は14日間の自主隔離が義務付けられ、その際はベタニエンのスタッフが食料なども、隔離されたアーティストのスタジオの前まで運ぶ、という対応がなされた。(この自主隔離の条件は6月19日からある程度緩和されることになった)
 このような状況ではあったが、5月から6月にかけてはとにかく制作を続け、展示までこぎつけることができた。ギャラリーは規制を守った上でオープニングを行うことに決め、搬入も順調に進んだ。オープニングの当日、予報では雨となっていて、雨となると来場者が室内に密集する危険があるので、そのことだけは心配ではあったが、幸い直前で予報は曇りとなり、観客を外に逃すことができた。オープニングでようやく、「リアル」に人と会い、話すことができたように感じた。と、このときやっとベルリンでの暮らしが始まったように思えた。


いいなと思ったら応援しよう!