『アンリアルライフ』をクリアしたので
ゴールデンウイークということで何かゲームを買ってクリアしようとSteamをみていたところ、かわいらしいドット絵と優しいBGMが優しくもどこか寂しげな世界を作り上げている『アンリアルライフ』というゲームに心を惹かれ、クリアまでプレイした。ここで『アンリアルライフ』について少し説明しておくと、記憶を失った少女がさわったもののキオクを読み取る能力を利用して、しゃべる信号機とともに幻想的な常夜の世界を旅するなぞ解きアドベンチャーゲームである。プレイ当初は感想記事を書くつもりはなかったのだが、思いのほか心に染み入るお話であり、エンディングに近づくにつれ考えたことをまとめたくなってきたので、書こうと思う。
4.以降には作品のネタバレを含む感想があるので、要注意。したがって、購入するかどうかの参考として本記事を読む場合は3.までにとどめてほしい。
1.音
プレイしはじめて真っ先に思ったのはBGM周りがシームレスにつながれており、世界の肌触りが滑らかに伝わってくるということであった。例えば、主人公であるハルが拠点とすることになる旅の宿「くじら」では、エレベーターで自室とロビー、カフェテリア間を移動する際、BGMが途切れることなく移り変わる。自室は音数が少ないピアノの音のBGM、ロビーに移動するとそこにもう一つピアノの音が追加されるといった具合だ。カフェテリアに近付けば、食器がぶつかり合う音がして、遠ざかると聞こえなくなる。そして、地面の材質が変われば足音も変わる。
また、『アンリアルライフ』では会話時に抽象化された声が聞こえてくるのだが、キャラクターごとにこれが異なっている。細かい。
こういったBGM・SE周りの特徴が『アンリアルライフ』作中世界に住む者たちの息遣いを伝えてくるのである。そうして、ドット絵が構造的にもつオルタナティブな世界の構築力によって生み出された、ここではないどこか=非現実ーーそれは本来なら我々の世界に対する差異として定義されるものーーへと我々はシームレスにいざなわれる。REALがゆるめられ、UNREALとはなんであるのかを知る。
2.光
次に目をひく点は、多彩で表情豊かなドット絵である。まず、プレイヤーキャラクターであるハルの多彩な表情差分や感情豊かな動作アニメーションだ。例えば、フラッシュバックに襲われ、その場にうずくまってしまったハルが落ち着きを取り戻し、立ち上がる一連のアニメーション。頭を抱えうずくまるハルとそれに伴って動くワンピースの動きがこれほど自然にドット絵で表現できることに驚いた。ドット絵は情報量が少ない分、表現力が小さいだろうと素朴に思いそうになるが、そんなことはなく、ドット絵の表現力はかなり高いのだと、この作品は教えてくれる。私がお気に入りなのは、ハルがベットから起き上がるアニメーション、ハルを見守る信号機である195とゲームをするためにソファに寝転がるシーンだ。
1チャプターの中のごく限られたシーンでしか使われないであろうドット絵とアニメーションも丁寧に作られていて、大切に作られてきたことが伝わってきた。上着の袖の丈が全くあっていないところが良い。
時折挿入されるドット絵による一枚絵からも目が離せない。お話の最後の方で畳みかけられるドット絵一枚絵たちは必見である。
3.音・光・お話
『アンリアルライフ』では、ドット絵で描かれる情景とSE・BGM、シナリオが互いに互いを引き立てあいながら、とても豊かな世界観が作り上げられていた。本来ならゲーム的装置として例外と割り切られそうなシステム周りまで世界になるほどに。
プレイ中のとある一シーン。流れるビル街、切る風、そして雲。静止画×BGM・SEなしだと世界の肌触りが伝わりにくいが、実際にゲームをプレイしてみるとここには確かに”世界”があることがわかるだろう。
4.一通りクリアまでプレイした感想
===以下、クリアまで進めた場合のネタバレを含みます===
ドット絵とBGMとシナリオの相性の良さ
過酷な「リアル」を前にして死のうとした少女は自身が作り出した優しくもどこか寂しい常夜の幻想世界へと落ちてきた。そこで少女は旅をしてその思いを胸に現実へと帰るーーそのような世界を描くとして、ドット絵以上に適切な手法はないように思われる。というのも、ドット絵はそれを見るものに「操作可能なもの」として立ち現れるからである。ピクセルアートを集めた画集『ピクセル百景 現代ピクセルアートの世界』(グラフィック社編集部=編)のESSAY#1で美術評論家のgnck氏はこう述べる。
ーードットが美しく見えるのは、それを「画像そのもの」として、あるいはゲームの中の「オブジェクト」として、つまり「操作可能なもの」として感じられるから、ということにもなるだろう。(p12)
ドット絵は「操作可能なもの」として変容可能性を示唆し、変容可能性を象徴するものへと容易に滑り込む。ドット絵で表現された「アンリアル」な世界はハルにとっての「リアル」な世界を部分的に写し取り、硬直した「リアル」をときほぐしながら、あり得たもう一つの世界を提示し、ハルの「リアル」が一種の思想=リアリズムに過ぎないことを示す。そうして、少女は現実の中にあっても「リアル」の外部が存在していることを知る。いまやハルは逃走線をひくことができる。
ここで、本作で使われているBGMに注目すべきであろう。私が注目したいのは、クラックル・ノイズを用いたBGM(例えばサウンドトラックの『Silent Signal』)やその系譜から聴く者に録音という営為を想起させるLo-FiなBGM(例えばサウンドトラックに入っている『Lo-Fi walk-商店街』)である。これらに共通するのは、メディアの物質性や時間性を聴く者に思い起こさせるという点だ。デジタル音楽に囲まれた我々は普段、音楽を聴く際、それが録音=記録されたものであるかどうかということを気にすることはない。音楽は常にインスタントに流され、その記録性が前景化することはなく、我々は現在という「リアル」へと留め置かれる。しかし、LPレコードを再生した際に生じる表面ノイズであるクラックル・ノイズが混入したBGMは、それを聴く者に、それが録音されたものであるということを思い起こさせ、今聞いている音楽、ひいては今見ているゲーム画面は、蝶番のはずれた時間のなかにあるのだ、ということを意識させる。それは、今ある環境という条件に束縛された現在(一つでしかありえない今)という偽装=「リアル」へと陥ることを許さない。ハルのお話を彩るBGMとしてこれほど適した音楽は他にあろうか。これはLo-Fiにしても同じである。
ここでは、記録のもつ物質性・時間性を想起させるBGMは二重の役割を果たしている。まず、プレイヤーの日常的な時間感覚を攪乱し、「UNREAL」へといざなうものとして。そして、欲望を手放さなかったハルの旅を物語る象徴として。
ハードウェアの物質性という路線で考えると、歴史的にドット絵にも色数の制約やディスプレイでのにじみといった物質的、時間的な受け手ー送り手という文脈がある。例えば、ドット絵デザイナーはディスプレイでのドットのにじみを考慮に入れてデザインしていたという話もある。『アンリアルライフ』におけるドット絵もメディアの物質性を思い起こさせ、オルタナティブな「リアル」=「アンリアル」を想像させることに一役買っているのかもしれない。
どの程度まで意図されたものであるかは別として、細部まで工夫が行き届いたBGMやドット絵という意匠が一つの豊かな作品体験を創り出してるのだ。
雑感
『アンリアルライフ』がじんわりとした暖かさに満ちているのは、誰もが何かを否定することがなく、あの外部世界が肯定に満ちているからだと思う。それがよくわかるのは、そのときできることをできるやつがやればいい、といった旨のカセリの発言や、結末部でハルが自分を受け入れるシーンで、自分にやれることをやるだけ、と言うところだ。ここでのポイントは、出来ないことを出来ないままに肯定し、むしろ今できることに目を向け、「出来る」ようになることを強制しない点、つまり対象の変化を前提としない点である。「リアル」では、出来ないことは常に出来るようになることが理想とされ、できないままに存在を肯定されることは少ない。勉強ができなくても運動ができる、両方ともできないのなら何かあなただけの輝ける素晴らしい個性をもっている(はずだ)……といったふうに。結局そこで肯定されているのは何かができて輝ける、能力を有するものとしての対象である。一見、出来ないことが出来るようになった自分を肯定することは良いことのように見えるが、出来るようになることは、できない自分からできる自分へという存在の否定を前提とするものであり、環境によって急き立てられる、できるようになることの過剰なまでの追求は終わりなき苦しみにつながる。しかし、そのときできることを出来るやつがやればいい、という姿勢は、できない存在からできる存在へという変化を前提とせず、だからといって出来ることを否定しているわけでもないため、徹底的な存在の承認に貫かれている。
あなたはあなたのままやれることをやればいい、という肯定。「リアル」に適応すべく自発的ではない自己目的化した成長や変化に追い立てられるうちに我々が忘れてしまいがちな肯定性が『アンリアルライフ』には存在していたと思う。
ブラウン管テレビではドット絵はにじんで映る(これについてはブラウン管だから、というよりはその映像伝送信号の形式に原因があるといった方がより正確という話もある)。『アンリアルライフ』のドット絵をよく見ると色のずれ、にじみがドット絵で表現されているように見えるのだが、もしかするとブラウン管テレビのにじみを再現しているのかもしれない。あるいは、映像の画面を思わせることでこの作品自体の記録性を示唆しているのかもしれない。
本に導かれるというモチーフ好き。やはり本は良い。
現実世界ではいままさに電車にひかれようとしているという背景が作品の締め括りにいい緊張感を与えていた。いつまでもいてもいいのではないかと思える常夜の幻想世界に世界の終わりが想起されることで、いままで通ってきた旅路が唯一無二のものへと生成変化するのである。
やはりここではないどこか、別世界、現実とは異なるレイヤーにある世界は不思議な魅力を持っている。『アンリアルライフ』の場合、ハルの出自がもつ悲しい境遇がハルの作り出した外部世界に切ないような、それでいて暖かいような色を帯びさせ、登場キャラクターたちに独特の儚さを与えているように思える。自身の思いが作り出した泡沫の夢。学校での現実と異世界という幻想の混合が良い味を出していると感じた。
ここでかかれたハルのささやかな在り方は、とてもしっくりくるものであった。ささやかな決意。そのときわたしにできることをやるだけ、そんなハルの姿が大変好むところである。
後半のあのシーン。6.67259というのは昔の万有引力定数Gの0を除く数値部分。wikipediaでは1986年の値がこれになっている。理科年表2019の地学の部をみると万有引力定数の0を除く数値部分はこの数値になっている(分野によって基準が異なるのかも)。もしかすると昔の数値であることに意味があるのかもしれない。1/256だけずれているという定数はなんだろうか。単位が気になるところである。ずれが小数表示ではなく、分数で、しかもきっかりと1/256だけ違う、というのが引っかかるところだ。微細構造定数α~1/137とかだろうか。
5.■■■■■■■■
===WARNING===
以下、実績「特異点」以後に明らかになる
世界設定に関するネタバレを含みます
伏字を使っています
===WARNING===
きおくなんてただのきろく、きろくなんてかきかえてしまえばいい
『Serial Experiments Lain』
Don’t miss a moment
Of this experiment
『String Theocracy』
旅の宿「くじら」のロッカールームにあるロッカー中の部屋の奥の張り紙を読むことでお話の裏側が見えてくる。そこでは、涼川桜という学者が因果学なる学問を飛躍的に進歩させる研究をなしてきたことが語られる。涼川の論文によれば、外的因果へ干渉可能になった生物は目が赤くなり、因果を観測することが可能になるという。そして、この機構を人工知能に埋め込むことで因果の観測実験を行おうとしていたようだ。
ここでいう因果が何を指すのかよくわからないため確実なことは言えないが、因果は普通、原因と結果、またはその間の関係のことを指すことから、因果の観測とは、ありえた他の世界の観測という意味だと私は考えている。その観測がどういうわけか今ある世界の操作にもつながるようだ(因果を書き換えてしまうのであれば、それをどうやって観測するのだろう?おそらく観測可能な外部世界が必要である)。
ヘキサマインド社なる組織が観測実験を失踪中の神楽坂博士の娘と涼川元研究員を使って行おうとしていたことが他の張り紙から明らかになる。おそらく、神楽坂博士の娘がーーなのだろう。張り紙には、ヘキサマインド社が博士から大切な人を奪うのは二回目、と読み取れる記述があることと、父親は知らない、母親はもういないというハルの発言がその証拠である。ハルの母親or父親が神楽坂博士で失踪中、父親or母親はヘキサマインド社による何らかの計画に巻き込まれ亡くなっているのだと思われる。
被験者である少女と涼川桜元研究員が作り出す共有■■■概念(■■■はたぶん非現実)を利用して因果観測実験が行われるようだ。実験に先立って少女と涼川桜元研究員を接触させることにより、共有■■■概念の成長を促していたようである。ここまでくればほぼ自明なことだが、ーーーが「先生」である(「先生」のことをサクラ先生とハルが呼ぶ回想もある)。学校内で孤立するハルを心配して「先生」がハルとしていた空想のお話は、共有■■■概念(つまり、ゲームの舞台)を形成するためで(も?)あったのだ。これで、「先生」からの空想のお話会の誘いが多少不可解であったことにも納得がいく。
その後、実験開始にあたって、少女のストレスレベルを限界まで高め、洗脳プログラム”epsilon”により踏切へ少女を誘導することに成功したとある。少女=ハルのストレスレベルを限界まで高める出来事が、交通事故の目撃と仲の良かった唯一の友達との仲違い、学校内で孤立、それからの先生の転勤だったのであろう。これを読むと、美術部の友人の交通事故も本当に事故だったのか疑わしくなってくるように思われる。それも仕組まれたものだったのかもしれない。もしかすると学校内で孤立していたのも実験のために誘導されたものである可能性がある。というか、仕組まれたものだったのだろう。
その後、踏切へ誘導後、記憶消去プログラムによって、少女の記憶を消去、とある。こうして物語冒頭に続く、というわけだ。
張り紙の中では、この実験の観測プログラム名を×××と呼んでいる。物語開始に先立ってされていた「先生」とハルの空想のお話には高性能無線信号機など存在しなかったと、現実世界へと帰る直前に「先生」は言っており、ハルが考え出したものと推測していたようだが、実際のところ空想になかった×××があの世界にあったのは、×××が外部から送り込まれたものだったからだろう。
これは推測になるが、人権のことなどみじんも考えないヘキサマインド社ともいえども、実験を二人の轢死でおえるほど残酷ではなかった、あるいは実験を現場で進めていた人たちは人には心がのこっていた(もしくは、実験に関わっていた人工知能のほうが人間より人間らしかった)のであろう、ハルと「先生」を助けようとした。しかし、何度やってもバットエンド(END1、END2、EDN3)にたどりついてしまう。そうして死んでいったハルと「先生」の死体の山がロッカールームの奥の部屋にうず高く積まれていく。この繰り返しの果てに心が擦り切れ、内部で実験を主導していた研究員(ベルのご主人)は、二人を助けるという意思を”□”とプレイヤーに託して、舞台を降りたのではないだろうか。最後の張り紙でいう環状因果の破壊を願っていたのはそういうことだったのである。また、こう考えることにより、ハルに恩義らしい恩義もない”0”が自身の身を危険にさらしてまでも、195をデリートから守ることで間接的にハルを救ったことにも納得がいく。
現実へ帰る直前に「先生」が「わたしには、これくらいの仕打ちがちょうどよいのよ」と素直に進めてきたプレイヤーからすれば不可解な独りごとをつぶやいていたが、真相を踏まえるとなぜ「先生」がこのようなことをつぶやいたのかが分かる(会話時には会話ウィンドウ色と同色の黒字となる形で隠されており、会話ログを読み返すことで何を言っていたのか知ることができる)。あの独り言はハルを実験に巻き込み、両親を失わせてしまったことに対する後悔の念から発せられたものなのだ。
真相を知ると、「先生」が線路へ飛び込んでハルを突き飛ばしてもどちらか一人が助からないほど近くまで迫っていた電車(電車の制動距離はかなり長い)がEND4では踏切直前で停止していた理由がわかる。心的表象を実体化し、さらには因果を書き換えたのである(観測者の居る世界そのものが書き換わってしまうため、この書き換えの方はたぶん観測不可能であり、だからこそその内部だけで世界の書き換えが完結する観測可能な外部世界=非現実としての共有■■■概念の世界を必要とした、のではないか)。ちなみに、私はEND4の書き換えではヘキサマインド社による記憶改竄技術自体が存在しないものへと書き換えられたと考えている。
まとめると、■■■■■■■■とはSerial Experiments Hal(ハルについての一連の実験)とでも呼べるものであったのだ。もしかすると、プレイヤ―はハルと同じように外的因果の観測が可能な実験の進行役的な立場の人なのかもしれない。
Serial Experiments "Hal"
かなり前のアニメ作品になるが、主人公が実験の被験者であり、本当の親もおらず、親のように接してくれた人は実は監視者だったというアニメに『Serial Experiments Lain』という作品がある。『アンリアルライフ』公式サイトによれば、『アンリアルライフ』の作者はこれに影響を受けているようなので、ハルの造形に玲音が幾ばくか参考になっているのかもしれない。あの作品はある意味、現実と非現実(仮想世界)の境が曖昧になっていく話であり、たしかに同じ雰囲気を感じる。
"0"が195を消滅から守った後、記憶が改ざんされ"0"の存在がなかったものになってしまう、という一幕があった。ある因果のエクセプションで追加される話を読むと、マリーは実は存在を忘れていなかったようであるので、おそらく、ハル以外は単に忘れたふりをしていただけであったのではないかと私は考える。ハルだけが記憶改竄されたのである。END3ではハルが「先生」の記憶を失ってしまうという描写があるが、ここから実験主導者は常にハルの記憶を操作できるような立場になることがわかる。『アンリアルライフ』では、記憶がキオクと表記され、さらには共有■■■概念世界の内部に限られるだろうが、ハルはものの記憶を読み取れる能力を持つあたり、記憶を重要なテーマとして扱っていることがうかがえる。セーブデータ選択画面をよく見てみると、データ=記憶選択の指示シンボルが読み取り電子基盤を模したものになっていることがわかる(もしかすると、クラックル・ノイズを使ったBGMや録音という営為を必然的に暗示するLo-Fi音楽といったメディアの物質性・時間性を想起させるようなBGMの使用は、本編は記録の再生であるということを示唆するためであるのかもしれない)。「きおくなんてただのきろく、きろくなんてかきかえてしまえばいい」とは『Serial Experiments Lain』の有名なフレーズであるが、この作品も物質的な基盤をもつような記憶を一つのテーマとして含む作品であり、こういったあたりに共通性を見出すことができる。『アンリアルライフ』は細部まで世界観が作りこまれていて製作者の丁寧さを感じるところである。
現実に戻ったあと「先生」は人体通信を利用して緊急停止信号を電車に送信したのかもしれないと推測していたが、人と環境が通信しあうというモチーフは『Serial Experiments Lain』にもあり、確かシューマン共鳴を利用して集合的無意識を意識に上らせるという使われ方をしていたはずだ。
カレットはカラス、カラスといえば、『Serial Experiments Lain』のOPでカラスは象徴的なモチーフとして繰り返し描かれていたと思う。関連があるかは謎。
本当の意味で自分で選択すること
現実世界へと旅立つハルに餞別の言葉として旅の宿「くじら」の支配人が送った言葉が、自分の因果を自分で導いていってください、という言葉であった。ここまでの真相を踏まえるとこの言葉が最高の手向けの言葉になっていることがわかる。おそらく、ハルの背後にプレイヤーがいてハルを導いていたことを支配人は知っていたのではないか(ハルが罪悪感としての自分に自殺させられそうになるシーンで、195が誰でもいい、助けてください、と意味深なセリフを言っている。単にカレットの存在を示唆しただけかもしれないが)。ある程度は自らで判断していたとはいえ、プレイヤーや共有■■■概念世界の友達たちがハルを助けていた。しかし、プレイヤーと共有■■■概念の世界の友達たちの庇護を離れるハルはこれから先自分で(少なくとも、この世界での友達の協力なしで)選択をしなければならない。そんなハルを支配人は励ましているのだ。
現実世界へ帰った後、ハルが学校や親の問題をどうしたのか本作では語られずに、幾年か後にハル先生になってかつての「先生」と同じようにお話を生徒にきかせていることだけが示唆される。このこと自体が現実に戻って以後の第三者による因果操作の不在を示し、『アンリアルライフ』以後、ハルが自分で因果を導いていったことを意味するのである。どうやらハルは”生きていろいろな景色を見てきた”ようだ。
Albert=シュタイン?
張り紙には目が赤くなった=外的因果に対する耐性を獲得したミュータントマウスAlbertを逃がしてしまったということが語られるが(とんだバイオハザードである。きっと責任者の首は文字通りふっとんだに違いない)、これがシュタインなのではないかと考えられる。まず、目が赤いこと。そして、両者ともアルベルト・アインシュタインの名を構成するものであるということである。もしかするとどこかにアインもいるのかもしれない。
心的表象の実体化
共有■■■概念によって構築された世界では想像によって作り出される世界であるがゆえに心的表象を自在に発現させることができ、さらには現実世界から構築された世界への干渉のみならず、その逆の現実世界への干渉も可能と、因果操作にも負けず劣らずこちらもとんでもない超技術である。
長々と真相をまとめてきたが、これ知ってもなお、作中で語られるハルのお話の痛切さがくすまないのが『アンリアルライフ』の優れたところである。Steamのライブラリにまた一つ重要な作品が増えそうだ。