とある受験生の日記 2020/1/11
テーマ【精神的チューニング】
こんばんは。今日は数学をゴリゴリ解いた大越(おおごえ)です。
最近、父がギターを弾いている。我が家は天井が吹き抜けの様になっていて各部屋は壁で仕切られているだけなので、その演奏音が私の部屋まで良く聞こえる。ヤマハのサイレントギターを使ってくれているので、私の勉強の妨げになることはない。本当はでかいギターで思いっきりかき鳴らしたいだろうに、気を使わせてしまって申し訳ない。ただ、私に迷惑をかけたくないという意識があるのにもかかわらず、夜遅くにリビングのスピーカーで大音量の長渕剛を流す事があるのはどうしてだろうか。私もさほど迷惑被っているわけではないのだが、剛の『乾杯』に胸が締め付けられるのだ。
話をギターに戻そう。ギターのみならず、あらゆる楽器は「チューニング」という作業を必要とする。演奏を始める前に、楽器が正しく音を奏でられるように音合わせを行うのだ。チューニングの作業を怠ってしまえば、いくら器用に楽器を扱ったとて良い音は出ない。いわゆる不協和音のような音楽が続き、聴いている人は「きったねぇ音だな。持ち主に似たんだきっと」と不快感を抱いてしまう。チューニングは良い演奏のための、基本中の基本なのだ。
つづく日々を奏でる人へ すべて越えて届け 星野源『アイデア』
人間もまた、一つの楽器なのだろう。私自身、日々の生活の中で無意識のうちに「チューニング」を必要としている。これは年がら年中のど飴や龍角散を摂取しなくてはいけないという具体的なことではなく、もっとぼんやりとした精神的なものである。
私の「精神的チューニング」の一つが、「ラジオ」だ。番組は限られていて、「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン」である。
この番組は2008年の末にレギュラー放送が終了し、それ以来不定期で復活放送をしているのだが、私はyoutubeにあがっているその音源を繰り返し聴いている。確か中学二年生のころに聴き始め、今までずっとである。
番組の内容はずっと下らない会話だ。有田の「まいったね」の一言から始まり、高校時代の話やおばさんマネージャーの話、お下劣なラジオネームを持つリスナーのハガキが続く。会話の内容はどれも下らないものばかりで、下ネタも多い。しかし下ネタと言っても、中学生男子が修学旅行のホテルの部屋で話すような内容である。だから何も考えず笑える。
この下らなさは、私を「0」に戻してくれる。この複雑な世界である。日々真摯に生きていれば、感情は大きな波をつくる。学校で友達と話している間なんかはその波には気づかないのだが、電車から降りて家へと向かう帰り道、海の底のように静かで暗い田舎道を歩いている時などに、ふと自身の波を感じることがある。気分が良い日は星空を見ている。そうでない日は地面の割れたアスファルトを見ている。
気分が良いにしろ悪いにしろ、自分が「波」の山や谷にいることに気がつくと、小心者の私である。途端に基準の「0」が恋しくなるのだ。「0」の自分が本来の自分であり、波にのまれた自分に対してははあらゆる確信を持つことが出来ない。一人で歩く帰り道は、何の影響もうけていない正真正銘の「自分」でありたいのだ。
私は急いでリュックからイヤフォンを取り出す。ほっぺをつねる事で現実世界の確証を求めるかの如く、私は「くりぃむしちゅー」と検索して確かな「自分」を求める。
再生マークに触れる。
有田「うぅぅーーーん……」
上田「(笑) どうした(笑)」
有田「いやまいったねーぇ……」
上田「元気出せよ。まいってんだったら元気出せ(笑)」
有田「うぅーん。……ん、ちょっと待って。………。うぅーーん」
上田「今考えだすな(笑) お前は1時前はむしろ元気だったよ」
二人の声は、何にも邪魔されずに耳へと届く。そこには疑う余地のない「下らなさ」があり、それを感じることができれば私の輪郭は確かになっていく。彼らの声を基準にして、自身のピントを合わせていくのだ。気づいたらそこには「基準の自分」が残っていて、ニヤニヤしながら暗い夜道を歩いている。
楽器の音は高すぎても低すぎてもダメであろう。チューニングをして、基準の状態に音を合わせることによって、良い音楽を生むことが出来る。自分自身を「0」に持っていった私は、きっと丁寧にその日を生きていける。そう信じている。
私は今日も「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン」を聴いた。有田がプロパン屋であった上田の実家に対して「人の弱みに付け込んで、空気で薄めたガスを売っている」とある事ない事言い続ける回だった。
頼りにしているのが下らない深夜ラジオだというのは少々馬鹿っぽい話ではあるけれども、似たような方法で「精神的チューニング」を行っている人はこの世界に沢山いる気がする。
とりあえず、「今日は良い一日だった」と、私は自信を持って言える。