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山と挨拶、人との繋がりと距離。-多峰主山にて-

 先日は天覧山に登ったので、今度は多峰主山に登ってみた。多峰主山も決して高い山ではないが、天覧山に比べると、「登山」という感じが強い。

 午前9時頃、能仁寺そばの登山口から登りはじめると、早速他の登山客とすれ違った。やけに家族連れが多いなと思っところで、祝日であることに気づく。それなりに忙しい自覚はあるが、ここらへんはやはり自分も「大学生」なんだなと思ったりする。

 他の登山客とすれ違う時、いつものように挨拶を交わす。ごく稀にこちらの挨拶を無視する方もいるが、まぁ1人で黙々と登りたいんだろうと思い、特に腹を立てることもない。

 私はこの登山客同士の挨拶というのが結構好きなのだが、よく考えてみると不思議な行為だなと思う。登山客は当たり前のように互いに挨拶を交わすが、多くの人はそれ以上の会話を強制しない。それは休憩する場所においても同じである。
 ここで挨拶が果たしている役割は何だろうか?と考える。挨拶を交わすということは、互いを人格として認め、互いがそこに存在していることを意識することに繋がる。挨拶という手段、マナーを介して、人と人が繋がる瞬間である。しかし、相手の意志を無視してその後の会話を強制すること(例えばナンパのような行為)は少ない(私の知る限り見たことも聞いたこともない)。そこにおいて挨拶という行為は、登山客同士を結びつけつつも、共有されたマナーとしての挨拶が人と人との間に存在することで、突然相手の領域に踏み込むような礼を欠いた行為を退ける役割も果たしているような気がした。

 「挨拶をしっかりしましょう!」だとか「人は1人では生きていけない!」などと言われると、やたら説教臭いし、無理やり人と関われと言われているようであまりいい気がしない。ただ、「1人でも生きていける、他人に干渉するな。」というような言説で溢れるSNS上で、いわゆる「クソリプ」と言われるようなゼロ距離での攻撃が行われているのを見ると、山での挨拶のように、一定の「距離」を意識しつつもゆるやかに繋がる人間関係は、結構重要なのではないかと思う。


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