『喫茶店でのふたつのおはなし』 | シロクマ文芸部
約2000字
秋が好きだと一時間くらい前に話してくれた修司君が置いた、テーブルのうえの千円札をつまみあげ、ひらひらと、それを眺めた。わたしはそれをバッグのなかの文庫本にはさんで閉じた。
さっき、喫茶店のドアを開けて、そして修司君が出ていった。
わたしの卓の灰皿を店の主人が替えた。
「ありがとう」
わたしはそう言って、ポーチからマイルドセブンをひとつ出して火を点けた。
この喫茶店の大きな窓が好きだ。坂のうえに、いつもたいして客もいないのに、ずっと昔からこの町にある。つぶれそうにもない。こじんまりとして、静かで。
だからこの喫茶店に、あの子を連れてくることにした。いままで、たくさん話をした。
窓際の席でお話するとき、あの子の顔がとてもきれいに見えた。こっそり話したいことなら、奥の席で、日ざしの届かないところで話した。たのしかった。
窓の外がうす暗くなり、ほどなくして霧雨が坂道に降ってきた。ガラス越しだから、音は聴こえない。
娘にわたしたちを見られたから、お終いにしよう。そうわたしは言った。交差点の信号待ちで、横断歩道をわたる娘に。
嘘だ。あの子はもっと「いたたまれない子」だとおもっていた。だからこんな事を言ったら、「いやだ」と言うはずだったのに。いままでのひとたちはみんな、それぞれに新鮮な反応をしてくれた。なかにはいかにわたしがベッドのうえでいかに素敵だったかをここで話しはじめた男もいた、わたしはそのひとの顔を、てのひらで掴んで、口を封じて、そして男はそのまま泣きだしたんだった。素敵だった、たのしかった。
ふつうの人だった。修司君。きみは普通のひとだった。哀れなのはわたしだけだった。
新鮮だった。そうだったのかもしれないけれど、でも、あなたも誘いにのったのだから、おたがいさまだったでしょう。わたしが既婚者の上司だったことも知っていた。
窓のそとで大声をあげながら、何人かの詰襟の学生たちが白い学校指定の自転車ですごいスピードで下っていった。修司君にぶつかったら。
音がしない。電柱にぶつかって自転車がぐちゃぐちゃになる音も、人にぶつかって大声で慌てる悲鳴も。ざんねんだった。
さみしくなった。わたしは喫茶店のなかの公衆電話で、家にかけた。娘が出た。「この喫茶店に来て」歩いて20分くらいな筈だ。「なんでもおごってあげる」
席に戻り、煙草をもう一本出して、火をつけた。
その煙草が灰になっていても、わたしはしばらくなにもせず、ただ座っていた。ドアが開いた。
目の前に席に娘が座った。
一時間くらい前に彼のいたところ。娘はニコニコしながらメニューを開いて、側の主人に注文を告げた。
「ねえ、お母さん、煙草っておいしいの?」
「自分のお金で買いなさい」
「コーヒー飲むひとって、だいたい煙草を吸うのよね。嫌だ」
「馬鹿にしてるの?」
「そう。それで、なんでわたしを呼んだの?」
「気まぐれ」
「また、男のひとのことだったんでしょう」
子供はいつもうっとおしい、どこの誰でも。
「もうすこし、お母さん、うまくやったらいいのに」
「いちいち泣くあんたに言われたくない」
娘がパフェを柄のながいスプーンですくってほおばる。頬にクリームがついているが、そのうち気づくだろう。もしくは、わざとやっているか。わたしの血はこの娘に確実にひきつがれてしまった。もうあきらめた。
紙ナプキンで顔についた汚れを拭ぐい、娘は席に深くもたれかかる。わたしに言った。
「素敵なひとだったの?」
わたしは煙草のけむりを窓に向けて吐いた。
「ねえ、あなた、季節でいちばん好きなのはいつ?」
「秋」
「彼もそう言った。丁寧に、なぜ秋が好きなのか教えてくれたの。枯葉にはひとつとして同じものがないように思えて美しいとか、この季節にいちばん深く『ためいき』をつけるからとか、わたしの肌が秋の日にいちばん映えるとか、そんなことまで。ほかにもたくさんのことを」
へえ。そうなんだ。パフェをからっぽにした娘は、喫茶店のなかで宙を見てつづけた。
「まだわたし、そんなこと言うひとに会ったことはないわ」
「わたしはちょっとラッキーだったの」
「そしてお母さんのラッキーは長くつづかないのよね」
「そうね」
わたしは煙草に火を点けた。
娘は微笑んで言った。
「そうね。とりあえず、人間を宝くじみたいに言って不幸せづらするの止めたら? どうこう思うのは勝手なんだけど、只でパフェも食べられるし、かさねて他人の不幸話はおもしろいわ、話し相手が馬鹿なら尚更ね」
灰皿に煙草を擦り潰す。
「成長しているのね、ずいぶん」
「学生なのよ、あなたの娘。学んでるの、たくさんのことを」
「あんたがなんでわたしの娘なんだろうって思うよ」
「同感するわ、お母さん」
わたしは、どうしても笑ってしまった。なぜか、すこし涙ぐんだ。
窓のそとを見た。暗い。わたしは喫茶店の主人を呼び謝った。どうみても閉店時間を過ぎていたはずだった。
「ねえ、あんたお酒は?」
「苦手」
「教えてあげる、悪いことばっかりね。いいことなんて知らないのよ」
「あたしお肉も食べたい」
「そうね、いいわ」
わたしたちは席から立った。
「ねえ、わたしお母さんのこと大好きなのよ」
わたしはそう言ったときの娘の顔を、見ておくべきだったかもしれない。
「馬鹿にして」
お金を払った。ふたりでドアを出る。暗い。
駐車場に向かう前に夜空をみあげた。深呼吸をする。
「どうしたの?」
わたしのセダンの側に立っていた娘に、振り向いて言った。
「秋が好きなのよ、わたしも」
初稿公開日 2023年09月18日 正午過ぎ
この作品はシロクマ文芸部さんの〆切日時の後から書きはじめたものです。ごめんなさい。
前作から、ほんのすこしだけ繋っています。