『わたしは ばかな、 けれどまだ子供だった』 | #シロクマ文芸部
消えた鍵のことをシバタは、朝食のスクランブルエッグをつくりながら台所で考える。
リビングのテレビから、TBS朝5時台のニュースが流れている。そろそろ6時になる。シバタはテレビに近づいて、チャンネルを変えた。画面の下のボタンを押して。
昨日わたしはこのお家(マンションだけど)に帰ってきている、そしていまでここお料理しているということは、もちろん昨日の夜まではこの世に存在している。鍵が。カードキー。
でも、けさになったら消えていた。これもそれほど驚くべきことではないのだ。お引越しはしてきたけれど、この、いまだ捨てられない雑誌「My Birthday」の山とか、旦那さんの資料とか、おたがいのお洋服とか、そういういろいろ、すこし不器用なわたしたちが住むお部屋において、それは、量子力学的にはその存在が確率でしか表現できないというようなこととおんなじなんだもの、慣れっこだもの、ぶきっちょで、あわてんぼさんだもの、わたしは特に。
彼女は、ガスコンロのまえで、うん……うん……と頷いていた。
フライパンのなか、ジューッといい音がしてきたので、部屋の一室でガス心中した愛しあうふたりのように交差しているベーコン二枚が敷かれたスクランブルエッグを……シバタは心中の際に男性が上に重なるか女性が上に重なるかという統計は存在しないし同性同士の事案もめずらしくないので性別というのはそれほど重要ではない、ふと、そう思った。
それをひっくりかえす。すかさず木製のコショウのミルをフライパンのうえでガリガリやって、コンロの火を止めた。
朝。肉の焦げる、いい匂い。
シバタは若干鼻腔をひろげ、匂いをすいこみ、幸せを感じた。
わたしはこうやって、かんたんだけど、ひとつの料理を朝すこしずつでも作れるようになっていくと、職場の廊下で転んだりしないようになれる気がするし、お仕事もなんだかうまくいくような気がするし、きっともう、旦那さんとケンカだってしなくなる。あとは朝のニュースの合間の星座占いでわたしのランキングが上位にきてくれていたらパーフェクト。
地下の物置き部屋で研修していたときは朝なにも食べなかったり、がんばってポテトチップスだけ食べて出勤したと言ってそのときの同僚さんに呆れられたり(朝から女性なのにお好み焼き食べられるっていうひとに言われたくなかった)旦那さんになったひとに、えへへへへ、頭をはたかれていた昔が、たいへんだったけど、なつかしい。そう、わたしは、奥様。 好きなひとのお嫁さんになれた、夢のような未来が現在。
それで……なんでまだ仕事してるんだろう……奥さまって奥にひっこんでていいから奥さまじゃないのかな。……あぁー、頼まれてるからだね、いろんなひとにね、おもに実家筋に、ほんとうに親戚っていやだな、文句は言うけどなにもしてくれないって親族って言うのかな。もうお嫁に行ったのにな。もうほんとはシバタじゃないのにな。旦那さんが言いかたをずーーっと変えてくれないだけ。それって……ずっと、気持ちがかわっていないってことなのかな、え、えッ! わたしわかっちゃったんですけど、今、それって、きゃぁ
(以下略)
彼女は顔をあからめてニヤニヤとしばらく棒立ちしていたが、ベーコンが油でかるく爆ぜた音で、左手にフライ返し、右手にフライパンを持っていることを思いだした。
耳のついた食パン(トーストしていたりはしない)のうえにスクランブルエッグを乗せると、身につけていた Paul & Joe のひかえめだけど甘々かわいい小花柄エプロンをダイニングの椅子に目で見ずにほうり投げた。
テーブルに出しっぱなしの元素記号表柄の特大マグカップのなかから、ティーバッグの出し殻をつまんでゴミ箱に捨て、そのままテーブル上の大きなガラス瓶の蓋をあけて、あたらしいティーバッグをひとつ手でとりだしてその中に放りこむ。やかんで湧かしてあったお湯をマグカップへどぼどぼ注ぐ。
旦那さんがいない。ひとりの朝食、もういやだな。
旦那さんはなんだか、またちょっと行っちゃったけど。
監視してるけど……心配だし、わたし警視総監だし、またなにか起こされてもイヤだし。
もう見失わないように。
なんだかなあ。
仕事、なんだか、行きたくないなあ。
彼女は、これでフジテレビの朝のニュースの占いコーナーの結果が惨憺たるもであったなら、もうしかたがないんじゃないかと、そうおもっていた。もうぜんぶなにもかもフジテレビのせいだと。なにもかもだ。フジテレビの。
でもなあ……。
以前電話で「わたしきょうお休みしたくてですね。いてっ、いててっ、実はけさから、いやぁ、ちょっとおなかが痛くって……」と確固たる法的根拠をもとに欠勤する仮病の理由を説明しても、なにせ職場が桜田門じぶんは総監、電話をとる相手はだいたい公安勤務経験者、ヒューミントの訓練を受けているのかいつも見破られててあとでみんなからすっごく怒られたり、そのまま職場の地下の物置部屋にまだいてくれている元上司に電話つなげられちゃって「ダメだよシバタ君、そんなんじゃ」てその台詞何回目……いろいろな意味でやっぱり悲しくなったし、最近は『委員会』のみなさんとかにおこられたり、更には一族郎党に報告するという嫌がらせまで使ってくるようになったもんだから……。とってもイヤだ。もっと女性のプライバシーを尊重してほしい。
でも、わかってる、すなおに朝から仕事に行けばいいんだ、けど、きょうは鍵が無くなっちゃった。しかたないじゃないか。
(そのまま言おうか。よし素直になろう、おうちのなかで鍵をなくしたから留守のおうちが心配なので、ちょっとお休みさせてください……でも、なんかそれは、これは、ちょっと)
「小学生が学校に電話をしているような」
つぶやいてしまった。
シバタは大人のプライドを優先した。今井美樹さんになった気分がちょっとした。出勤することにした。
考える。
窓から出るか。
まず廊下に面した窓はひとつもない。警視総監(シバタ)を狙ったテロリスト等が爆薬を炸裂させられたとしても部屋内部がそう簡単にダメージの及ばないよう施工されている。
と、すると、バルコニーからか。
基本的にそこに出るなとみんなから言われているからあんまり見たことがないけど、仮に防火扉があったとして、それをやぶってお隣さん(いるのかな)に事情を説明してお部屋を通らせていただいて外に出る…… いや、ダメだ、
出たはいいけどこんどは帰るときどうしたらいいんだ、もういっかい事情を説明するのかい。めんどくさいなあ。あのカードキーけっこう複製するのに書類たくさん書かなきゃいけないしハンコどこやったかわかんなくなるから部下のひとに預かってもらってるからバレておこられるし、そもそもカードキー作るのって業者さん大変だから日数かかるんだよなぁ……やだなぁ……。
ではバルコニーからかっこよく垂直降下で道路まで、うわぁ、かっこいい、けど……ダメだ、旦那さんが倉庫部屋になぜかそういうの用意はしてくれてるけど、
前に偉くなっちゃったもんだからなんかしなくちゃいけなさそうな訓練を、広報にカッコよく載せますからっていうから、レンジャー部隊のみなさん見守るなかがんばらせてもらったけれど、降下途中で怖くなっちゃってロープにしがみついて泣きだしたのは誰。わたし。
そしたらさらに神さまがいじわるして、風がすっごくビュンビュンしてロープがユーラユラ揺れちゃって上からも引きあげられなくなって(わたし自体はそんなに重くない)、さらに大声で泣き出してもう気をうしないそうになったら気の利くことに警視庁特殊部隊(SAT)の狙撃班に緊急出動していただいて下にクッションをもともと通常一枚のところ二枚重ねでご用意いただき(わたし軽量なのに)ロープをライフル弾で撃って切るという神業を成し遂げていただき、ちぎれたロープにしがみついたまま落下、クッションにポヨヨンと弾んで無事だったのは誰。わたし。(軽かったしね)
『いやー、自分ちょっと不謹慎ですが過去に聞く谷川岳の事案をはるかに越えたっていうか、今回20発以内、え、16発目? そう、それで生きてる人間がしがみついてるロープを、しかも強風でかなり揺れてるのをライフル弾で千切ってみせたってのはちょっと、へへへ。訓練上のトラブルからのことですし、事がコトですので絶対に公にできないことが悔しいです。そうなんです、こんなこと僕の口から話せるのは誰に対しても家族にもひとりごとでも人生でもう今が最初で最後なんです。いや、本日はありがとうございました!』って、あのときは狙撃手のかたは慰めてくれたなあ(SATの隊長のひとは目も合わせてくれなかったけど。感じわるかったな。坊主頭の。お蕎麦の出前頼んだときにああいう感じのひとが電話に出たらイヤだな)。
そもそも帰宅時。どうするんだ。
わたし、さかあがりもできないのに。
では玄関から出る。通常の方法ではなく。
鍵穴は機能しない。あるがブラフであり使用できないし、たとえガムで塞がれたとしても開錠はもちろんできる(ただし鍵穴への異物挿入をセンサーが感知した場合、即時通報される)。
自動車と同じように、とはいえそれとは仕様がまるで違う現時点で高度に暗号化された無線で開錠される。いちおうカードを表札下の受信部にかざすと開錠することになっているが、シバタが肌身離さず持ちあるく、何年かまえに初めてのデートで買ってからというもののずっと大事にしつづけている日光東照宮権現さまのお守りのなかのチップが主たるプライマリキーであり、カードはセカンダリであり補助でしかない。カードのみをセンサー部にかざした場合、やはり即時通報される。
彼女の夫はプライマリキーチップを埋めこむものとして、常時携行するホルスターを選んでいた。
いつもシバタはひまなときに考える。「暗号を使っていることを気づかれない仕様ってできないのかなあ、カードをかざして開錠ってそれは近接無線してますよってことだし、それは『この暗号を破れますか』って悪意ある人間を挑発してるようなものなんだけれどなあ……そうじゃない、使用していることがわからない見えない暗号通信って、うふふ、なんか、とっても、かっこいいよなぁ……」
ハーブティーを飲みながらひとりで(ニヤけて飲みながらぶつぶつ呟きながら)考え、イイかんじの仕組みがおもいつく、
そのたびに、
自宅で、旦那さんとひさしぶりに会えたり
職場だとたとえば古巣の地下の物置部屋からとかからご相談の内線かかってきたり
声だけ大きくて嫌味のセンスが無くてちょっとあんまり頭のよくない部下の管理官さんたちとかから、ちょっとあんまり面白くない仕事の内線がかかってくるので、それなりに事件の解説をしていたら(なんで現場を見て知っている人達が現場に行ってないわたしに解説されているのか不思議に思わないのかな)
ポンと忘れてしまう。
とはいえ、いまのところ自分の生活で困ってないので別にいいし、その仕様をどこかでつくってほしいと思ったらどこに電話したら……母校、いやー、めんどっちゃいなー、こういうこと思いついて説明してもあそこで誰にも一回でわかってもらえた試しがないし。
以前電話したことのある古巣の物置き部屋の新人さん(女の子)は話が早かったけど……ちょっと、怖い……クチの利きかたが……出前がかったるくてメンドくさくてしょうがなくて学生さんとかにも人気の下町の中華屋さんとかにいそう……。
そうだ、そういえばわたし、その子より偉いんだったな。警視総監なんだったな。こわくなんかないぞ。
って、いってもなあ……きょう何するんだろう。でも、行けばみんなが教えてくれるか、いつも。お家に帰るとだいたい忘れちゃうんだよなあ。
シバタは食べおわっていた。相当以前に。椅子から立ちあがった。
シャツの山からまだイケそうなシャツをとって身につけ、とりあえずいつものスーツをハンガーから取り、良くいえばハンドブローで髪を撫でつけ、着替え身支度をすませる。
スーツの左ポケットから入っていたままのスマートフォンをとりだして横向きに持つと、アプリでプロンプトを開く。2分ほどアプリのソフトウェアキーを両手の親指でタップしつづけると、大きな振動音とともに、玄関の複数の鍵が開錠される。
ため息をつく。
「旦那さんと、LINEとか、してみたいなあ……あ、バッグ忘れた」
キッチンに戻り、ダイニングテーブルの下にあった肩掛けかばんを引きずり出して、玄関脇のラックにひっかけてあったコートを着る。
バッグを肩にかけると、すこしのあいだ、うつむいたままで横向きのスマートフォンの画面を親指でタップしつづけた。そして片手をはなしてドアノブを回して、玄関を出た。
ふりむいて、ドアを閉める。ちいさな声で、
「enterっと」
そっと、ひとさし指でタップする。
閉めたドアから、また振動音と、次いでガコンと音がした。
「いつかこれバレたら、システム勝手にいじったって担当部署からぜったい怒られるんだよなあ……いじられるような作りのシステムつくったほうが悪いとおもうんだけど」
シバタはとぼとぼとマンションの廊下を歩きはじめたが、いきおいよく顔を上げる。
「お迎えの車!」
腕時計を見た。7時半を過ぎていた。マンションの廊下を走りだす。
途中で、
「いけない! 占い見てない!」
振りかえったまま走ってしまい足をひねり、そのまま廊下突きあたりのエレベーターのドアにあたまをしたたかに打つ。
ひとりで泣いた。
エレベーターが上ってくる。なかにスーツの男たちが乗っていた。
ドアが開く。そのなかのひとりに問いかけられたシバタは答える。
「大丈夫です。行きましょう。ごめんなさい」
立ちあがる。
お読みいただき、ありがとうございました。
初稿掲出 2023年7月16日
最終改訂 2023年7月16日 夕方
©︎かうかう
この作品は #シロクマ文芸部 のお題「 #消えた鍵 」に参加させていただきました。
付記;
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