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時が経てば英語は日本語になる

コロナウイルス関連の報道で横文字をよく見かけたものだ。ステイホームに始まりクラスター、ソーシャルディスタンスなど耳慣れない言葉が乱用されていたように思う。

これらカタカナ語に対し「わかりにくい」「日本語を使え」「英語にする必要ない」などと否定的な意見が散見された。これについて私見を展開したい。

そもそも英語が嫌なのか

個人的に感じていることは「カタカナ語が嫌なのではなく、意味不明な言葉に抵抗感があるのでは?」ということである。「英語を使うな」という意見は、英語の使用を否定するのではなく、「わかりやすい表現をしてくれ」という意見なのではないだろうか。具体例で説明する。次の2つの文章に目を通していただきたい。

英語における不定冠詞の区別は、不定冠詞の次の単語に依存する。その単語の初めの音節が母音のみである場合にはanを、それに該当しない場合にはaを記述する。
英語でaとanの使い分けは、単語の発音がアイウエオで始まる単語のみanをつけて残りの単語にはaをつける。

 上の文章では専門的な単語が使われている点や漢字が多用されている点で難しい印象を受けると思う。「結局どういうこと?」となってしまた人もいるのではないだろうか。漢字の羅列は難しさを与える。
 この文章を読むと「理解できないもどかしさ」が残りなんとも言えない気持ちになるはずだ。

一方、下の文章は漢語はあまり使用されず、簡単な語彙で書かれている、また抽象的ではなく、具体的に説明がなされている点で理解しやすいように思う。

このように、内容がわかりにくくなる理由の具体例として、漢字の羅列、知らない言葉がある。もちろん、知らない言葉の中に今回のコロナ報道のような外国語も含まれることになる。

以上が「英語が嫌なのではなく未知の単語が嫌なのでは?」という主張になる。

時間が経てば英語も日本語になる

次に「いやそうじゃない、英語が嫌だ」という意見にも個人的見解を示しておきたいと思う。

まず、私たちの生活には想像以上に英語が浸透していることを確認しておきたい。トイレやレストラン、スマホ(スマートホン)などあげればキリがないほどだ。上記の単語を日本語に言い換えるのは至難の技ではないだろうか。

興味深い動画があったので下に貼っておく。「英語禁止インタビュー」である。これを見れば、英語なしでのコミュニケーションがいかに難しいかを少しは理解してもらえるような気がする。

私が伝えたいのは「言葉は徐々に受け入れられる」ということだ、コロナ禍がこれほどまでに長続きした日本において「ソーシャルディスタンス」の意味がわからない人はいないであろう。反発があるのは最初だけなように思えてならない。了解が「りょ」、そして「り」と変化していったように言葉は意外と受容される。

最後に私の主張を一言で要約する。外国語をそんなに毛嫌いしなさんな。

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