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夢幻御殿の秘曲と八十年後の供養
今回のお話の前半は越知町の「大樽の滝」が舞台の話です。
以降、その話にまつわる史実の紹介に至ります。
これらのお話は越知町史や佐川町史から引用させていただきました。
大筋の内容は変更せず、ありのままに記載してますが多少、わかりにくい表現をわかりやすくしたりしています。
夢幻御殿の秘曲
越知町文徳から滝のある山を眺める。
右手の谷に大樽の滝がある。
大樽の滝のほとりは樹齢千年はあろうかという巨木が天高くそびえる原始林で昼間でも暗い谷間には木々の枝越しに白糸のような滝がゴウゴウと音を立てて流れ落ちるのが見える。
ある日、文徳(ぶんとく)集落に住む木こりの翁が山の中で仕事をしていたが、暑さにたまりかねて大樽の滝まで降りて行き、滝のほとりで腰をかけて休んでいた。
よほど疲れていたのか翁は腰をかけたまま
いつしか眠りに落ちてしまった。
どれほど時間が経っただろう。
滝の冷気が頬に当たり、翁は目を覚ました。
あたりを見渡すと、とっぷりと日が暮れ、夜空に浮かんだ月の光が木々の隙間を縫うように差し込み、一層寂しさをかき立てるのであった。
「まずい、この年寄りの身で灯りもない山をいかにして降りれば良いものか…」
翁は途方に暮れた。
滝は相も変わらず、ゴウゴウと音を立てている。
そんな時、翁の耳に滝の轟音とは別の、何やらとても美しい音色が遠くからかすかに聞こえてきた。
「これは…琴の音だ…」
いとも妙なその琴の音色はどうやら滝の方から流れてくる。
怪しんだ翁はゴウゴウと音を立てる滝へと目をやった。
なんとそこには、先程まで無かった立派な御殿が滝の左右に現れていた。
軒には提灯が灯され、ぼんぼりがいくつも灯された座敷の中央に、脇息(肘掛け)にもたれて座っている御殿の主人らしき者との傍には何人もの侍女がかしづいておりました。
その中でも一際美しい、主人のご息女と見える若い女性が琴を掻き撫でては
「すがるなく 秋の別れのいにしへを
忍ぶあまりに 月の夜遊び」
何遍ともなく繰り返し、繰り返し朗吟する様を翁はまるで、何かに憑かれたかのように我を忘れて聴き入ってしまった。
気がつくと、周囲は明るくなっていた。
知らぬ間に夜が明けていたのだった。
あたりを見渡すと先ほどまでうつろに眺めていた御殿も人もすっかり消えていた。
「不思議なこともあるもんだ…」
再三驚かされた翁は急ぎ足で里へと帰り、事の次第を里の人たちに話した。
話を聞いていた古老の一人が
「それは先年、佐川領主、深尾出羽守重昌君の逆鱗に触れ、一門眷属ことごとく越知長瀬にて斬首にされた郷士、田辺九郎兵衛貞重ら一族の亡霊で、滝のほとりで出ることがあるそうな。軽々しく他人に話すで無いぞ。」
このことを聞いた人々は恐ろしくなり、申の刻以降、この滝に近づく者はなくなったという。
紹介された物語はここで終わっています。
大樽の滝
現地には滝にまつわる話は見受けられませんでした。なんでも、昭和の中頃辺りまでは立て看板があったらしいですが…
かろうじて「いろいろな悲哀物語がある」とあります。
合わせて調べたところ滝の主の大蛇を撃ち殺した挙句、その骨を足蹴にしたことで祟りにあい死んだ侍の話はありました。
長くなるので載せませんが別の機会でまた。
滝姫と夢幻御殿の話はどこかでつながってそうですね。
ここらで亡霊御殿の主とされる
田辺九郎兵衛貞重
の話に移ります。
田辺家と深尾家
田辺九郎兵衛貞重
山内藩政時代、土佐の国の主席家老で
佐川領1万石を治める深尾家に仕えた侍。
田辺の祖母は初代深尾家当主深尾重良(しげよし)の姉であり深尾家に重く取り立てられても不思議ではない血筋であった。
この田辺さんは初代から二代目にかけて深尾家に仕えますが前述の大樽の滝の話にあるように、二代目である深尾重昌の不興を買い、現代で言うところ、越知町今成の河原にて幼い子らと斬首された、との言い伝えがあります。
この斬首騒動の発端は一体なんだったのか?
原因は深尾家の代替わりにありました。
深尾重昌の血筋
佐川城跡
佐川町紫園
初代当主深尾重良が亡くなると、後継に据えられたのは深尾重昌。
彼は山内一豊の弟、山内康豊(やすとよ)の次男で深尾家へと養子に出された形となった。
初代当主深尾重良の意向で、重良の従兄弟にあたる深尾重忠が深尾家を継ぐことになっていた。
初代藩主山内一豊にもその旨を伝え、一豊も納得していたが、一豊亡き後に二代藩主忠義の代になり事態は急変する。
ここで以下に登場人物について。
山内家
山内一豊(土佐藩初代藩主)
山内康豊(一豊の弟)
山内忠義(康豊の長男で一豊の養子)
(土佐藩二代藩主)
佐川領主深尾家
深尾重良(深尾家初代当主)
(初代佐川領主)
(田辺の大叔父)
深尾重忠(重良の従兄弟)
(二代深尾家当主になる筈だった)
深尾重昌(山内康豊の子。忠義の実弟)
(深尾家二代目当主)
深尾重良の意向とは裏腹に、二代藩主山内忠義は自分の実の弟である吉六(のちの深尾重昌)を
二代目と予定されていた深尾重忠の娘に婿養子として婿入りさせ、重忠は分家とされてしまいます。
これは二代藩主忠義の後ろに、山内康豊の策謀があったとの説もあります。
当然、重良としては面白くなく、山内一豊の人柄を思い出しては、二代藩主忠義のやり方に疑問をもつようになります。
ですが、藩主の圧力には従わざるを得ません。
こうして重良亡き後深尾家二代当主は深尾ではなく実質、山内家が継ぐこととなった。
これに田辺九郎兵衛は憤慨した。
「深尾の血を軽んじておられる…」
日頃、大叔父にあたる重良に常に同情していた田辺九郎兵衛は遂に閑居(かんきょ)を願い出て、越知に住むことにします。
田辺が住んだ地は現在でも田辺屋敷との地名が残るそうです。
越知に閑居
越知に閑居した田辺九郎兵衛。
そしていよいよ斬首に直結する事件が起こりますが、実際の説と作り話とされている説があり、せっかくなので両方紹介しておきます。
夢枕に立つお地蔵さん
領主重昌が高知城へ登庁する前夜。
九郎兵衛は重昌らが川を渡る際に使う舟に
細工をし、船が沈むように仕組んだ。
船に溜まった水を抜く栓をあらかじめ抜けるように細工した。
だがしかし不思議なことにその夜、重昌の夢枕に日下(現在の日高村日下)の川渡りの地蔵が現れて、九郎兵衛が船に細工をしたことを告げた。
この夢がもとで企みは露見。
九郎兵衛は死罪となった。
重昌は感謝し、地蔵堂を建立した。
この説はまぁ、めちゃくちゃです。笑
ですが実際の説であろうと云われている話も、なかなかにパンチが効いてます。
以下の説が実際(であろう)といわれています。
二代目の役を重忠に就いて欲しかった田辺九郎兵衛は、佐川領内の田辺家が治める領地(越知、黒岩、庄田)の各寺社に呪詛を命じ、ついには横倉山の不動ヶ嶽に不動明王を本尊とする祭壇を設けて七日七晩にかけての護摩業に及び、重昌を呪った。
だが田辺家の領地内に田辺家を恨む者がおり、その者がこの護摩業の仔細を深尾重昌に密告。
ただちに田辺九郎兵衛貞重は捕縛、監禁された。
越知町
正面が横倉山
たまたま政略で殿にされた深尾重昌にとってはどえらい理不尽なことです。
しかし、人を呪わば穴二つと言いますね。
激怒した深尾重昌は田辺九郎兵衛に切腹を命じます。
この時、まだ幼かった田辺九郎兵衛の子、
熊若(九歳)と幸丸(六歳)らには斬首が申しつけられた。
十歳にも満たぬ子らを斬首とはいくらなんでもむごすぎる。
この時、深尾重良の姉であり、田辺九郎兵衛の祖母である加仲は助命を願い、横倉寺の僧呂である仙英にその役を任せた。
仙英は
「もし幼児二人を助命してくだされば寺にて引き取り、僧侶の道を歩ませます。」
と懇願したが、重昌の怒りは激しく願い出は却下。
幼児二人は斬首に処されます。
この時の話がわずかに曖昧で、親子ともども斬首にされたとも、田辺九郎兵衛のみ切腹で、子ら二人は斬首であった、などとも。
越知町今成の河原
※この場所かは定かではありません。
仙英はこの事を悼むと同時にこのようなむごいことをすれば、やがて深尾家に祟りがあるかもしれん…と憂いています。
やがて仙英の憂いは的中することとなる。
やがて深尾家をはじめ佐川の人々が大いに苦しむ出来事が起こります。
八十年越しの祟り
田辺九郎兵衛は末期の言葉に、こう言い残したとあります。
「我亡き後、この川辺に白いカラスが飛べば田辺の怨霊と思え。」
その後の深尾家には不幸が相次ぎ、このため、越知の小作人森田某に託して石灯籠を建てたとあるが、その地は定かでない。
そして、八十年の時を経て深尾重昌の孫の代へとなり、不幸は深尾家のみならず佐川領民にまで及ぶ。
五代佐川領主深尾繁峯の時代になり、宝永四年の大地震がおこる。この地震により津波が須崎にある深尾家所有の御用船一隻と小舟四隻を失う。
続いて享保年間、再三、再四にわたり佐川の城下町は大火に見舞われ、のべ百軒に及ぶ家屋が焼失し大半が焼け野原と化した。
さらに元文年間に入り疫病の流行により死者が続出した。
この疫病により深尾繁峯は弟の稠済と正室、
息子二人を亡くした。
とりわけ、繁峯を落胆させたのはまだ幼かった二人の息子の死であった。
このような不幸の連続は祖父の代に親子ともども、斬首に処された田辺九郎兵衛貞重の祟りではないか、と繁峯は考えました。
疫病で死んだ自分の息子二人と幼いうちに首を刎ねられた田辺の息子二人とを重ねたのか、深尾繁峯は土居屋敷の裏山に祠を祀り、熊若、幸丸の名を一字ずつちなんだ熊幸神社とし、田辺九郎兵衛の息子二人を弔いました。
現在は熊幸神社は深尾神社と合祀されています。
深尾神社
佐川町柴園
越知町の峰興寺の裏手に小さな瓦葺の祠と、50センチほどの大きさの仏像があり、これを
田辺様の墓と呼ばれて祀られていますが、
祟り神とされています。
実際に確かめるには至りませんでした…
越知町 峰興寺
田辺九郎兵衛の恨みは晴れたのか。
皮肉にも深尾家は藩政期の土佐藩内において
もう一つの国があるほどに栄えた。
この騒動とはたして大樽の滝のもとに現れた
御殿と関わりがあるのか。
越知町自体、平家の町として平家伝説も残りますので、平家関連の悲哀話とまぜこぜになってる可能性もあります。
また違う説や、大樽の滝に関する話、田辺九郎兵衛の話などなど、わかればまた追記として出そうと思います。
それでは。