伊東甚五郎の話
つい先日ツイートしたいの町寺川に伝わる
伊東甚五郎(いとうじんごろう)の話。
このツイートに関しては旧本川村の村史にあったものを引用しましたが、今回また別の書籍にて伊東甚五郎の話を知ることができ、今回はノートで紹介させていただきます。
伊東甚五郎記
時代は江戸時代。土佐二十四万石
山内藩政の時代。
伊予と土佐との境を隔てる奥山に、寺川と呼ばれる地がある。
古くはこの地へと赴任する土佐藩士があまりの遠さと道の険しさに自ずと職を退きたいと願い出たという話が残るほどの隔世された地だ。
そんな深い谷山に抱かれたこの地に
伊東甚五郎と言う1人の山番がいた。
庄屋でありながら、藩お抱えのお留山を預かる役に就いていた甚五郎は他の庄屋とは違い、それは力強い権力者でありました。
さてこの甚五郎、なんと言っても変わっていたのはその顔つきだった。
目は片方上下に二つ、左右合わせて四つも目がある人間離れした顔つきで、上の目は昼に見え、下の目は夜に、といった具合で、さらには武に秀でた比類なき豪傑であった。
虎のようなヒゲをまるでヨモギのように生やした甚五郎が、腰に赤鞘の太刀を下げてはお留山の見回りをする様子が寺川郷では日常でありました。
異様な容貌から荒くれ者ように思われるが、実に情け深く、文武両道にて村人にも慕われており、甚五郎のおかげで郷はいつも平和でありました。
ある時、長沢と呼ばれる集落へと所用で出かけた甚五郎は、けわしい谷合いへと差し掛かった。
ざあざあと流れる川は、清く美しい水とは裏腹に、険しい谷を降るごとに流れの勢いは増すばかり。
荒い岩肌の斜面を藤のツルを命綱にと握り、一歩、また一歩と足元を踏み締め降りていく。
降りた先には谷合には誰が作ったか、それはそれは丈夫な、カズラを念に撚り合わせて作った橋が架かっている。
橋へとたどり着くと、時を同じくして川向こうから1人の侍が甚五郎の居る方へと向かって一歩、また一歩、と橋を渡ってくる。
遠目に見て甚五郎は、橋をこちらへ向け渡ってくる者の殺意を感じ取り、僅かに身構えたもののそこは肝の据わった甚五郎。
臆することなく足元の危ういカズラ橋を堂々と渡り、橋の上ですれ違った。
にわかに重苦しい空気が流れたが
刃を交えることは無かった。
「何者か…」
と疑問が湧いたものの、先を急いだ。
長沢へと無事たどり着いた甚五郎は、曲者に狙われていることなどお構いなしとばかりに宿の広間に大の字になって寝た。
高らかにいびきをかく甚五郎に歩み寄る不審な影。
道中、橋の上ですれ違った者だ。
「今度こそは…」
と刃を握る手に力をこめつつ、甚五郎の寝ている部屋へと忍び込んだ。
標的は眠っている。
しめたものだ。
刺客は寝ている甚五郎に向い、刃を振り上げた。
だが次の瞬間
「曲者!」
宿屋が揺れるほどの一喝とともに飛び起きた甚五郎。
赤鞘の太刀が見る間に刺客の頬をかすめた。
纏った忍び装束の頬がハラリと捲れ、転がるように外へと飛び逃げた刺客。
「またしても仕損じるとは…」
噂には聞いていたがなんと甚五郎の腕の立つこと。
それより刺客が何より驚いたのは、甚五郎が目を開けて眠っていたことだった。
「斯様に目を開けて寝られては寝込みを襲うことも出来ん。昼間は昼間で滅法、剣の腕が立つときている。よし、こうなれば酒に酔い乱れた隙を討つしかあるまい」
刺客にとっては何と運の良きこと。
甚五郎に至っては運の尽きとも言うべきか。
豪傑で鳴らしていた甚五郎は無類の酒好きでもありました。
甚五郎は一眠りしたのちに催された出迎えの宴席で酒をたらふく酒を飲んだ。
宴もたけなわとなった頃、甚五郎は祝いの小謡「高砂や」を舞った。
「高砂や〜この浦舟に〜帆を上げて〜」
無事に舞を納め甚五郎は安堵し、心に隙が生まれた。
「いまなら、殺れる…」
獣が低く唸るような声で小さく、絞り出すようにつぶやいた刺客。
七尺の槍をしごきにしごいてその時を待った。
庭先の岩陰に身を潜めて様子を伺って、
ここぞとばかりに甚五郎の脇腹目掛けて
「エイ!」
と槍を突き立てた。
不覚をとった甚五郎。
脇腹から血しぶきが上がる。
血走った四つの目ではたと刺客を睨みつけ
とっさに腰の刀に手をやったが、あまりに
出血が多く、時すでに遅し。
「無念」
と叫ぶや否や、その場に倒れ伏した甚五郎。
まんまと甚五郎を討ち取った刺客は軽い足取りで闇夜に紛れ、振り返ることも無く消えていった。
おそらく、甚五郎の事を相当に恨んでいた者の仕業であろう。
藩のお留山の番人にて大庄屋。
刺客は甚五郎の地位を妬んだ者か…
はたまた、盗伐を討ち払われた賊の手の者か…
戸板に乗せられた甚五郎の遺体は寺川へと運ばれ、荼毘に付された。
村人の悲しみは深く、中でも乳飲児を背負った甚五郎の妻の悲しみ様は、より一層人々の涙を誘った。
深い悲しみに包まれた出来事であったが、まだ闇は終わらなかった。
「伊東甚五郎には男子の後継が居る。いつか仇を打つ、と立ち上がるやもしれん。この際、甚五郎の一族を、ことごとく葬ろう」
悲しむ暇もなく、何者かに狙われていることを悟った甚五郎の妻は寺川を離れることを決意した。
まだ薄暗いうちに一粒種の乳飲児を背負い、険しい山道を伊予国へと向かった。
伊予に抜ける山道はいくつかあるも、そのうちのカマヤブと呼ばれる道を選んだ。
長沢へとゆく道はすでに追手がまちかまえているに違いない。
カマヤブへと向かう途中、この地の者が「入らず」と呼ぶ大きな桜の木がある所まで来た時、藪の中から槍を持った男が甚五郎の妻の前に立ちはだかった。
男は低く、唸るような声でポツリと呟いた。
「背の子は男児か?」
その問いに甚五郎の妻は
「女児にござります!」
とだけ返答し、足早に通り過ぎようとするも虚しく、赤子を力づくに奪い取られた。
「やめて!」
甚五郎の妻の必死の叫びに耳を貸さない追手は、男児であることを確認すると、
「えい!」
と赤ん坊を空へ放り投げ、落ちてくるの見計らい赤子を突き殺した。
瞬く間に槍を引き抜くと、今度は甚五郎の妻の胸元目掛けて電光石火のごとく槍を突き、殺害した。
憐れな甚五郎の妻子。
この地に桜の木は今も残り、そこから数メートルほど西方に生えるクルミの木の根本に妻子の墓があるとされる。
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この話は旧本川村の本川の民話編集委員会発行の「本川の民話」の中のひとつ
「伊東甚五郎の話」(寺川)を元にしています。
村史にあった話より詳しくありました。
もっと違う話もどこかにあるかもしれません。
調べてみるとします。