じぶんについて
カノチャンである。
わたしは文章に対する、というか、言葉に対する意識がつよいのだと最近感じはじめた。
相手の本当に伝えたいことは言葉に表れると思っている。
真意がどうあっても、その言葉を選んだところに潜在的な意識を感じて真逆に捉えたり。
言い回しや、不意に出た言葉、そこに真実がある、と思っている。
でも、世の中はとってもテキトーだ。
「そういう意味じゃない」がまかり通るし、テキトーな言葉でテキトーな何かを生み出したり生み出さなかったりする。
そんな世の中は、わたしにとってはめちゃくちゃに生きづらい。
かといってわたしだって、言葉を額面通りに受け取って、はたまた一部だけを切り取ってよろこんだり怒ったり哀しんだりわらったりしてるわけでもない。
文脈からなにから捏ねくりに捏ねくりまわして、いろんな角度からみる。
考えに考えて、その言葉の意味を、その言葉が出てきた意味を考えて、
よろこぶのか怒るのか哀しむのかわらうのか、はたまた捨てるのか決める。
つまり、すごく面倒くさいニンゲンだ。
ひとりのニンゲンがポロッと零したひとつの言葉で頭が沸騰するほど考えることだってザラだ。
ある程度いいオトナになり、こんな奴がそう多くいないことは痛いほどわかった。
テキトーな言葉で社会は成り立ち、みんなその上で生活を紡いでいる。
そこまでわかっていても、わたしにはどうしてもじぶんの中の「正しい言葉」が捨てられない。
正しいというのは、言葉によって真意を、真実を伝える、ということ。
これは呪いなのだと思うしかない。
そして厄介なのは、わたしにはじぶんを信じる力がつよくもあって、よわくもある。
散々脳内で捏ねくりまわした後、出した結論には絶対的な自信があるはずなのに、ない。
あるけどない。
わたしの頭がおかしいのか?本当に客観視ができているか?感情で言葉を引っ張って捻じ曲げてないか?
別にわたしが感じたことなのだから、捻じ曲げようが主観だろうがどうでもいいはずだ。
でも、そこには「正しい言葉」の呪いがある。
正しくなければいけない。
誰にとって?それは知らない。
でもそうして、いろんな場面でじぶんが言葉を発して、記して、後悔していることはいまのところひとつもない。
言葉がどれだけつよく、はたまたテキトーに捉えられるのかをわたしは知っている。
真意を、真実を伝えるためのことは尽くした。
あとは読み手、聞き手次第だ。
わたしはつよくはなれない。
ずっと、「正しい言葉」の呪いに縛られて、テキトーだったり的外れな言葉も真正面から受け取る羽目になる。
言葉で溢れるこの世界で、わたしがいちいち言葉に傷付くことなく生きられる日はこないと諦めた。
厄介な呪いを生み出したわたしの脳みそがわるい。
でも、その分言葉でひとを救えることは知っている。
おなじく言葉を大切に扱うひとも、そうでなくとも、こころの底からじぶんを大切に思ってくれるニンゲンの言葉はテキトーでもあったかいことを知っている。
いやな言葉がやさしい言葉に勝つのは事実だけど。1:100でつりあうものだから。
いまは、なんだか連続で何度も何度も言葉の呪いに振り回されて体がズッタズタになってしまったから、
いまいる大切なひとたちにせめて哀しい想いをさせないために、
いまはただそれだけのために、生きていたいと思う。
わたしの傷が治ったら、大切なひとたちとたのしく過ごすために、生きていけたらいいなと思う。
じぶんのことです。
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