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自由の刑
人生において、やらなければならないこととは何だろうか?
その答えとも言えることが、確信を伴ってびっちりと書いてある自己啓発本や、それらに関連して広告として流れてくるネットの記事を目にする度、僕には似合わぬそのバイタリティに気圧されてしまう。
僕は何をすればいい?
僕に何ができる?
僕に生きる意味はあるのか?
問いばかり膨らんで、抱えるものは大きくなって、重くて重くて一歩たりとも前に進めやしない。
目の前を行き過ぎる箱。ぎゅう詰めに運ばれる人たち。みな目的を持ってあの箱に詰められている。
何処に行くのか、何をするのか。彼らは持っていて、この僕ただひとりだけが持っていない、そんな幻想に足元が壊れ始める。愚図愚図と此処に立ってさえいられない。
さて、そんな彼らと僕にもたったひとつ紛うことなき共通点がある。それは何か?
「死」だ。
「生まれて死ぬこと」は誰しもに共通する。誰、いやどんな生物にとっても、だ。生きているものはいずれ、「死んでいく」。
それだけが決まっていて、あとは空白なんだ。だとしたら、その空白は自分のものなんじゃないのか。自由なんじゃないのか。
「我々は自由の刑に処せられている」。
サルトルの言葉。自分で何かを選び取って生きていくことには大いなる責任が伴う。その重責からは免れられない。
生まれること。自由の中から選択すること。その選択に責任を負うこと。そして、死ぬこと。これだけは人間に共通することであり、決まっていることだと言える。
決まっている、そう思うと少し吹っ切れた。僕がどう足掻こうともそれだけは決まっているのだ。今、僕がこうして苦悩していることは僕の選択だ。その間に起こることに、僕は責任がある。こうして時間が経過していくことも僕の責任だ。
だとしたら、僕は何に対して喜んで責任を持てるだろう?僕の手に負える責任とは何だろう?
それは僕が選ぶんだ。
僕は前を向く。そして僕はこれから負う責任のために、肩にかかる荷物を全部降ろした。
END