地獄というのはなんだ、と考えたとき、やはり理想が完遂されない世のことを言うと思うのである。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に地獄の描写があるが、犍陀多は自らが助かることばかりを考え、人を蹴落として平気でいる。そうして勝ち上がった者、負けて落ちてしまった者と分かれる。最終的には、犍陀多は、糸を切られ落ちるのであるが⋯⋯。これは現世でも、当然に同等ことが行われている。富める者と貧しい者。古狸性を備えた人間が、優しい人を騙し、犠牲にし、幸福を得ようとする。太宰治の『燈籠』のさき子は盗みを働いた。警察の取り調べ中の剣幕は、なかなか面白いところがあった。
一見、富める者は幸福のようであるが、高い地位というものが発生する地獄の世において、偉くあっても醜いだけである。また、宮沢賢治の言葉、「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」、ということもあっては、地獄の世に生きる人類は、くだらない幸福を与えられながら、真の幸福および平穏を、見つけられずにいるという、生殺しの状態とも言える。
誰かの犠牲が前提の幸福など、ほんとうの幸福とは思えない。それは普遍的な理想である、全人類の幸福、というのもあるが、もっと身近に、なんにもない人に突然、不幸になってほしいと考えることがないからというのもある。
浮世には優しい人がいる。しかし優しい人は損をする。狡い人は騙しを行い、自らの身ばかり案じている。そんな世である。そうしていつまでも理想は遂行されない。構造上無理なのかもしれない。
これが地獄でないわけがない。