浮世は地獄であること

地獄というのはなんだ、と考えたとき、やはり理想が完遂されない世のことを言うと思うのである。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に地獄の描写があるが、犍陀多かんだたは自らが助かることばかりを考え、人を蹴落として平気でいる。そうして勝ち上がった者、負けて落ちてしまった者と分かれる。最終的には、犍陀多かんだたは、糸を切られ落ちるのであるが⋯⋯。これは現世でも、当然に同等ことが行われている。富める者と貧しい者。古狸性を備えた人間が、優しい人を騙し、犠牲にし、幸福を得ようとする。太宰治の『燈籠』のさき子は盗みを働いた。警察の取り調べ中の剣幕は、なかなか面白いところがあった。

――私を牢へいれては、いけません。私は悪くないのです。私は二十四になります。二十四年間、私は親孝行いたしました。父と母に、大事に大事に仕えて来ました。私は、何が悪いのです。私は、ひとさまから、うしろ指ひとつさされたことがございません。水野さんは、立派なかたです。いまに、きっと、お偉くなるおかたなのです。それは、私に、わかって居ります。私は、あのおかたに恥をかかせたくなかったのです。お友達と海へ行く約束があったのです。人並の仕度をさせて、海へやろうと思ったんだ、それがなぜ悪いことなのです。私は、ばかです。ばかなんだけれど、それでも、私は立派に水野さんを仕立ててごらんにいれます。あのおかたは、上品な生れの人なのです。他の人とは、ちがうのです。私は、どうなってもいいんだ、あのひとさえ、立派に世の中へ出られたら、それでもう、私はいいんだ、私には仕事があるのです。私を牢にいれては、いけません、私は二十四になるまで、何ひとつ悪いことをしなかった。弱い両親を一生懸命いたわって来たんじゃないか。いやです、いやです、私を牢へいれては、いけません。私は牢へいれられるわけはない。二十四年間、努めに努めて、そうしてたった一晩、ふっと間違って手を動かしたからって、それだけのことで、二十四年間、いいえ、私の一生をめちゃめちゃにするのは、いけないことです。まちがっています。私には、不思議でなりません。一生のうち、たったいちど、思わず右手が一尺うごいたからって、それが手癖の悪い証拠になるのでしょうか。あんまりです、あんまりです。たったいちど、ほんの二、三分の事件じゃないか。私は、まだ若いのです。これからの命です。私はいままでと同じようにつらい貧乏ぐらしを辛抱して生きて行くのです。それだけのことなんだ。私は、なんにも変っていやしない。きのうのままの、さき子です。海水着ひとつで、大丸さんに、どんな迷惑がかかるのか。人をだまして千円二千円としぼりとっても、いいえ、一身代つぶしてやって、それで、みんなにほめられている人さえあるじゃございませんか。牢はいったい誰のためにあるのです。お金のない人ばかり牢へいれられています。あの人たちは、きっと他人をだますことの出来ない弱い正直な性質なんだ。人をだましていい生活をするほど悪がしこくないから、だんだん追いつめられて、あんなばかげたことをして、二円、三円を強奪して、そうして五年も十年も牢へはいっていなければいけない、はははは、おかしい、おかしい、なんてこった、ああ、ばかばかしいのねえ。

太宰治『燈籠』

一見、富める者は幸福のようであるが、高い地位というものが発生する地獄の世において、偉くあっても醜いだけである。また、宮沢賢治の言葉、「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」、ということもあっては、地獄の世に生きる人類は、くだらない幸福を与えられながら、真の幸福および平穏を、見つけられずにいるという、生殺しの状態とも言える。

誰かの犠牲が前提の幸福など、ほんとうの幸福とは思えない。それは普遍的な理想である、全人類の幸福、というのもあるが、もっと身近に、なんにもない人に突然、不幸になってほしいと考えることがないからというのもある。

浮世には優しい人がいる。しかし優しい人は損をする。狡い人は騙しを行い、自らの身ばかり案じている。そんな世である。そうしていつまでも理想は遂行されない。構造上無理なのかもしれない。
これが地獄でないわけがない。

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