普通とはなにか。理想という指標。〜太宰治『斜陽』を添えて。

※本は未読。

いわゆる健常と異常に、優劣のようなもの、特別な性質はないとする内容なのだと思う。
それと論点は外れるのだが、発展として、健常と異常には、優位性があるかもしれないということを考えていく。

理想、そして健常と異常

我々には理想がある。理想の人物像は? と問われたとき、あなたは何と答えるか。
真面目、親切、明るい性格。と、聞いて、否定できるところがあるだろうか。これらは決して、なくてはならないものではない。ただ、あった方が理想的かもしれない、というものではある。
上記にあげた理想像は否定しようがない、ほとんど人類共通の、真の理想。この理想の由来が、人間そのものの本質なのか、歴史によって形成されたものなのかは分からないが。

それから僕は、或る冬の夕方、そのひとのプロフィルに打たれた事があります。やはり、その洋画家のアパートで、洋画家の相手をさせられて、炬燵にはいって朝から酒を飲み、洋画家と共に、日本の所謂文化人たちをクソミソに言い合って笑いころげ、やがて洋画家は倒れて大鼾をかいて眠り、僕も横になってうとうとしていたら、ふわと毛布がかかり、僕は薄目をあけて見たら、東京の冬の夕空は水色に澄んで、奥さんはお嬢さんを抱いてアパートの窓縁に、何事も無さそうにして腰をかけ、奥さんの端正なプロフィルが、水色の遠い夕空をバックにして、あのルネッサンスの頃のプロフィルの画のようにあざやかに輪郭が区切られ浮んで、僕にそっと毛布をかけて下さった親切は、それは何の色気でも無く、慾でも無く、ああ、ヒュウマニティという言葉はこんな時にこそ使用されて蘇生する言葉なのではなかろうか、ひとの当然の侘しい思いやりとして、ほとんど無意識みたいになされたもののように、絵とそっくりの静かな気配で、遠くを眺ながめていらっしゃった。

太宰治『斜陽』

理想の前に、健常と異常の差はほとんどない。なぜなら、健常者も異常者も、理想には到達できていないからだ。
しかし、健常が理想に近いものを持っていたなら、健常と異常には優位性が存在する。
もしくは、理想と健常を同一視するなら、優位性がある。
なぜなら、我々には否定しようがない理想があるからだ。この理想を見なかったり、馬鹿にしたりすることは、愚かしい行いだ。
理想像に到達できなくてよい。ただ自覚していれば。優位はあれど劣位はない、そんな感じだ。

いつか僕が、
「友人がみな怠けて遊んでいる時、自分ひとりだけ勉強するのは、てれくさくて、おそろしくて、とてもだめだから、ちっとも遊びたくなくても、自分も仲間入りして遊ぶ」
と言ったら、その中年の洋画家は、
「へえ? それが貴族気質というものかね、いやらしい。僕は、ひとが遊んでいるのを見ると、自分も遊ばなければ、損だ、と思って大いに遊ぶね」
と答えて平然たるものでしたが、僕はその時、その洋画家を、しんから軽蔑しました。このひとの放埒には苦悩が無い。むしろ、馬鹿遊びを自慢にしている。ほんものの阿呆の快楽児。

太宰治『斜陽』

理想を馬鹿にすること、それはほんとうに人類の進みたい道なのだろうか。幸福にのみ焦点を当てれば、きっとそうなのだろう。しかし、人類の本質はきっとそうじゃない。

ヒュウマニティあること。無意識の領域に親切が存在すること。身の内に善が存在すること。

言っていることは全て同じだが、これこそが人類の理想なのだと、私は信じたい。

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