理想の否定と、世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない、とは。

仲間というものが少ない気がする。SNSではよく誰かが争っている。その争いが争いを呼び、苛烈化する。
いわゆる、厳密な意味での個人主義とは違うが、己の利益の最大化を絶対視し、他を切り捨てるような。人に親切にするような善なる無意識の精神性が、失われている気がする。
それでいて、人と関わらざるを得ないから、争いが絶えないのだ。
身近な意味での共生、互いを尊重し合う精神性がないのならば、人と関わることが間違い。孤立し続けるだけの気概がなければ、正しい倫理と自省をし、共生という普遍的な理想を見つめるべきだ。

理想というのは理想だから理想なのだ。よく分からんが、つまり、目標なのだ。理想主義と現実主義。理想主義というのは、しばしば、夢見がちの阿呆のように見られるが、己の目指す標なのだから、否定することはないだろう。太宰治の『斜陽』の直治の遺書に、このような一節がある。

いつか僕が、「友人がみな怠けて遊んでいる時、自分ひとりだけ勉強するのは、てれくさくて、おそろしくて、とてもだめだから、ちっとも遊びたくなくても、自分も仲間入りして遊ぶ」 
 と言ったら、その中年の洋画家は、「へえ? それが貴族気質というものかね、いやらしい。僕は、ひとが遊んでいるのを見ると、自分も遊ばなければ、損だ、と思って大いに遊ぶ」  
 と答えて平然たるものでしたが、僕はその時、その洋画家を、しんから軽蔑しました。このひとの放埒には苦悩が無い。むしろ、馬鹿遊びを自慢にしている。ほんものの阿呆の快楽児。

太宰治『斜陽』

自らの理想をかなぐり捨て、同志の理想を否定する。こんなにも、ふざけた奴がいるだろうか。自らの理想なんだよ。例え、諦念せずにはいられないとしても、否定することはよくない。
普遍的な理想とはなんだ。普遍的な倫理、道徳、善。全人類の幸福。こいつを否定することはできるか? ほんとうに、心根の底から、こいつを非難できるのか?
宮沢賢治は

世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない

と言った。ほとんどそう思う。この言葉の全ての意味を汲み取れた訳ではない。ただ、私がいいように解釈しただけであるが。誰かの幸福の犠牲になる者がいる以上、全人類の幸福はほとんどあり得ない。しかし、理想を否定することはない。ほとんどあり得ないとしても、誰かの幸福のために不幸になる者がなくなり、全人類の幸福が完遂できるならば良い。
自身の幸福というのは、全人類の幸福が成し遂げられない以上、保障されないのだから。全にして個、個にして全、ちょっと違うが、そんな具合だ。


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