人間の時間から開放されること
人の思い悩む理由は、自分にある寿命が短いからだ。永遠の命があるならば、重大な決断をいくらでも先延ばしにできて、たとえ今、幸福を叶えられずとも、いつかはできるだろうという余裕が生まれる。
人はおおよそ百年しか生きられない。限られた人しか、たった百年で、自らの理想を達成することはできない。ほんとうの幸福への希望がないのだ。
では、今際の際に生きる人はどうだろう。
私が思うに、自分の寿命を自覚した人は、人の時間の感覚から外れる。百年しか生きられない、と思う時間の感覚から、逸脱できる。
これは、諦めなのだろうか。それとも、死へ希望を抱いているのだろうか。
例えば、こんな話がある。
真偽は不明。
今際の際にいる状態、という共通点はあるが、それとは別物かもしれない。
しかし、未来への希望を抱けない、そんな状態より、死への希望を抱くほうが幸福かもしれない。
もしくは、未来への希望を忘れ、今を生きることに、なんとなく没頭していたほうが、幸福かもしれない。
馴染みのある生活。変わらない毎日、日常。平穏な日々。
寿命を忘れ、幸福を達せられないことを忘れ、時間を忘れること。ただ平穏が、幸福となること。加えて、ときどき、平穏の自覚がされて、感動すること。
しかしその平穏は、私たちが会得するには、自覚という絶望が必要だった。