歓びから生きる
信じられないかもしれないが、私は自分のやりたいことをずっとやらずに生きてきた人間だ。
というか、自分が何をやりたいかすら、よくわからなかった。
慢性的な罪悪感を抱えていて、自分が幸せになってはいけないような気がしていた。
世界の裏側には飢餓に苦しんでいる人もいる。
それなのに自分は何て恵まれているんだ、自分だけ豊かになってはダメだと。
なぜ、そんな風に考えるようになったのだろう。
もちろん、家庭環境も大きいだろう。
勉強以外のことをやることは許されない家庭だったし、親から「こんなに子供のために苦労しているのに親の気持ちがわからない子供だ」と言われたし、なんで普通の女の子のように生きられないのかと言われた。
それを聞きながら、決して幸せそうではない親の顔色を伺いながら(彼らはなぜいつもあんなに不幸そうだったのだろう?別に不幸の原因があったわけじゃないのに)、自分が自分を生きたら親を不幸にする、しかし親の期待に応えたら自分を殺すことになるという感覚を抱き、自分を生かしても殺してもだめだと思いながら長年生きていた。
一時期は精神分析を受けて、子供時代に抱いた思いをじっくり見ていくことに時間を費やした。
だが、最近思うのは、親自身も抑圧され苦しんでいたんじゃないかということだ。
だから別に原因はないのにいつもあんなに不幸そうにしていたのではないかと。
幸不幸など、ある意味相対的なものだ。
どういう状況でも幸せは感じられるし、また一見幸せそうに見えても不幸であると感じている人も多いだろう。
私の両親は、楽しむことや歓ぶことは悪いことであると思っていたのではないか。
私の親に限ったことではない。
日本全体がそうだったのではないか。
自己犠牲こそが美徳だという、そういう集合意識を抱いていたのではないか。
だからこそ、お国のためとか言って死んでいき、全共闘の浅間山荘事件だって個の欲望を徹底的に否定した。
だが私は思うのだが、自分が我慢したり耐えたり犠牲になったりしたからといって、この世界は果たして救われるのだろうか。
もちろん、他人のものを奪ったり独占したりするのは論外だが、世界と自分がつながっているのだとしたら、自分を犠牲にするということはそのまま世界の一部を犠牲にするということなのだ。
どんな状況でも、歓びから、希望から、選択することはできる。
世界の一部であるこの自分を尊重することなく、世界のなんらかを尊重することなどできるのだろうか。
だから私は歓びから生きようと決めたのだ。
人からどう見えようが人にどう思われようがどうでもいい。
そんなのを気にして不安に感じて行動しないでいるのは、単なるナルシズムだ。
私は私の魂の衝動をきちんと尊重し、結果を怖れるのでなく、前に進もうと思った。
もし私がやりたいことをやっているように見えるのだとしたら、そう生きると決めたという、ただそれだけのことだと思う。
何がいいかなんてわからない。
人はその人にしかできない固有の唯一無二のかけがえのない人生を生ききるように、自らの美しい人生を生きるように、そうやって生かされている。