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外側のキラキラした何かを基準にすればするほど、どんどん自分から離れていく。
とある人の「人を変えるのは、言葉ではなくて存在の光なのだとつくづく思う。存在の光が、なにかを伝えた時に、伝えられた人は自分で何かを取りにいく。」という言葉を読んで、なんかモヤモヤする。
そもそも、人を変えようと思うこと自体が傲慢ではないのか、とか。
存在の光っていうけど、すべての人に存在の光があって、外に光を追い求めてしまうとき、自分の中にある光を忘れてしまうのではないか、とか。
その、なんというか、優劣というか、ヒエラルキーというか、権威みたいなものを外側に作ってしまう構造を崩して、自分の中に力や基準や答えがあることを思い出すためにはどうしたらいいかみたいなことを、私はずっと、えんえんと考えてきて。
だから、「自分が答えになってはならない」って言ったりとか、平場のフラットでゆるやかなつながりの中で、自分とつながった言葉を発することみたいなことを模索し続けてきて。
誰かから教わった言葉や、正しいことや美しいことをいうのではなく、本当に内側から出てきた、いまの自分の言葉を。
自分の中に湧いてきたことを裁かずにその場において、ほかの人の言葉も裁かずに聞いたときに何が起こるか。
しかし、多分、こういう世界観ってわかりにくいんだと思うんだよね。
何度言ってもまったく理解されないことも多い。
わかりやすい、キラキラした、カリスマ的な、権威、だれかのところに行ってお話を拝聴して、なんかわかったような気になって、その場だけでは元気になって、また時間がたつと変わらない日常が続くという。
永遠にどこかの誰かの価値観や考えや言葉を受け身で消費する消費者のままで。
自分の力を奪われたままで。
外側のキラキラした何かを基準にして、そっちを正しいと思えば思うほど、自分はだめだ、自分は足りてない、ああならなければと自分を否定し、自分からどんどん離れて行くんじゃないか、と。
そんなことを、ずっと考え続けている。
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![くりはら せいこ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/10549259/profile_66783e0a92f3b27b3d31cc2e547c1dce.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)