tomoshibi《灯》
小さな飲み屋が軒を連ねる路地裏で、薄汚れたやや急な階段を降りると、古びたドアがあり、少し傾いた小さな札には、消えかかる文字で「灯」と書かれていた。店内は、カウンター6席とボックス席が1つ。薄暗い店内は、天井の数個のダウンライトだけで照らされていた。
開店も閉店も、店主の気分次第…。この店では、店主が出すウイスキーを、ただ味わうというのが暗黙の了解だった。様子を察して出されるウイスキーは、不思議とその日の気分に合っていた。
この店は、ウイスキーしかないが、棚一面に、かなりの種類が並べられていた。スコッチ、アイリッシュ、アメリカン、カナディアン、ジャパニーズ…。中には、40年ものの非常に高価なウイスキーもあったが、何を出されても支払いは、客が払いたい金額をお構いなしに払っていた…。
ここは、そんな不思議な空間だった…。
〈第1夜〉
店のドアが開き、老紳士は、被っていた帽子を取った。挨拶がわりに、その帽子を頭の上に掲げ、そして、静かに微笑んだ。
店主は何も言わず、読みかけの本を伏せ、準備を始めた。
老紳士はカウンターの席に着き、2~3分もするとコースターが敷かれ、その上にウイスキーがオンザロックで静かに置かれた。
老紳士は、静かに話し始めた。
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「ワイフとは50年連れ添った…。」
妻は、長い海外生活を共に歩んだ同士のような存在だった。子供がいなかったこの夫婦にとって、お互いは、自分の一部とも言えるものになっていた。子は鎹というが、そのつなぎ止めるものがない状態で50年を共に歩むことは、経験した者以外、容易に想像することは難しいだろう。
その妻が、この世を去った。入退院を繰り返し、長患いだった…。長年の心労からは解放されたが、糸の切れた凧のように、老紳士の心は彷徨っていた。
銀行の海外支店長を長年勤め、いろいろな国を回った。ジャカルタでは、お手伝いさんを何人も雇い、賑やかな日々だった。明るく元気な、はつらつとした妻の姿が思い出された。いつもきれいに、ワイシャツにアイロンをかけてくれた妻…。
インドでの駐在も思い出していた。舞い上がる砂ぼこり、混沌とした空気、人々のあふれる熱気…。
ことさら何があったというわけでもないが、日々の何気ない会話がとめどなく思い出された。老紳士は、ひとしきり語り尽くしたようだった。
「明日は、君の好きだったサヴァランでも買いに行こう。久しぶりに紅茶でも入れようか…。」
亡き妻に語りかけるように呟いた。
財布から、綺麗な1万円札を3枚取り出して、コースターの下に挟んだ。
「ありがとう…。」
そう締め括り、帽子を被った。
老紳士はゆっくりと席を立ち、帰って行った。
〈第2夜〉
今夜は、午後11時を過ぎても、客は一人もいなかった。小さな音で、FMラジオが流されていた。日付が変わって別の深夜放送が流れ出すと、外の階段の入り口付近から数名の酔っ払いの大きな声が聞こえてきた。
階段を踏み外すような音と共に、ドアが開き、OL風の女性が1人入ってきた。彼女は、もつれる足をうまく動かそうとして、カウンター席に突っ伏してしまった。そのまま眠ってしまったのか動こうとしなかった…。肩の辺りが微妙に動いていることで、呼吸しているのがわかった。
店主は、何事もなかったかのように、カウンターの内側で、本を読み続けていた。
しばらくして、ラジオの午前1時の時報が、店内に響き渡った。
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「どうして、私なの?」
その女性は、カウンターに顔を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
大手商社の繊維部門に14年、起業して3年が過ぎようとしていた。アメリカの大学院でMBAも取得し、イギリスやフランス、イタリアなどの海外勤務も数年ずつ経験した。主に、ヨーロッパからの生地の輸入や買い付けを担当していた。
40歳を過ぎても仕事一筋にやってきた。過去に、数人の男性と恋愛はしてきたものの、どれも結婚には至らなかった。というよりは、仕事を優先してきたといったほうが正しいのかもしれない。女だからダメなんだと言われたくなかった。人一倍負けず嫌いの性格も後押しして、男社会の中でがむしゃらに頑張った結果、順調に昇進し、男性の部下からも信頼される存在になっていた。順風満帆は、誰もが認めるところだった。
華々しい経歴を積み上げて、起業して3年目に入った頃、新しい取引先との話が持ち上がっていた。イタリアの生地メーカーだった。社員は10人ほどになってはいたが、まだ、社長である彼女が自ら動かなければならない状態だった。この案件に関しては、取引金額も大きい上に、経験不足の社員に任せるわけにはいかなかった。
その取引の為に、イタリアと日本を行ったり来たりする生活が始まった。社員の勉強の為に同行させることもあったが、主に、社長の彼女が1人で行くことが多かった。
そうするうちに、彼女は、取引先の社長と急速に親しくなっていった。そのイタリアの生地メーカーも、工場で働く人たちを除けば、10人ほどの会社で、社長も45歳で同年代だったこともあり、親しくなっていくのに時間はかからなかった。離婚経験があるものの、独身の彼とは、何の問題も無いように思われた。次第に、イタリアへ行った時は、彼のアパートに泊まるようになり、彼女の心の中では、結婚も視野に入ってきていた。出張を2~3日伸ばして、2人でフランスに旅行したこともあった。取引先の社長と付き合っていることは、社員も知るところとなり、社員たちも結婚するのではと思っていた。
契約も完了し、いよいよ品物が船便で届く日がやってきた。しかし、大変なことが起こってしまった。船に荷物が積まれていないというのだ。調べたところ、船に荷物が積まれた形跡はなく、取引先の会社も連絡がつかなくなっていた。
彼の連絡先も電話が繋がらなくなっていた。つまり、彼女はまんまと詐欺に遭ってしまったのだ。
「船に商品が積まれていなかったなんてありえない…。」
伏せていた顔を横にした時、彼女の目頭には、涙が溜まっていた。
「船積書類の何もかもが全部嘘。信じられない。私が騙されるなんて…。」
少し落ち着いたのか、彼女は少しずつ話し始めていた。
様子を見計らって店主はカウンターにコースターを敷いた。出されたのは、バーボンのストレート。彼女はゆっくりとそのウイスキーを口にした。一口味わうと、口の中に複雑な味が広がった。それと同時に、甘めの香りが鼻腔に抜けていった。
ウイスキーのせいで少し気持が緩んだのか、彼女のすすり泣きはむせび泣きに変わっていった。
人前でこんなに泣いたのは初めてだった。それは、悲しいとか寂しいなどというものではなく、言葉では表現できない悔しさだった。今まで積み上げてきたものが、彼女の中で、一気に粉々になってしまっていた。目の前で、跡形もなく消えてしまったものを思い、呆然としていたのかもしれない。
「本当に、悔しい…。」
涙も涸れかけた頃、ぽつりと呟いた。
時刻は午前3時を回っていた。
しばらくだまっていた彼女は、ゆっくりと席を立った。
「聞いてもらって、なんかすっきりした…。ありがとう…。」
虚ろな目で 店主に礼を言い、不意に目を伏せた。
「えっと…..。」
思い出したように、彼女はバッグから財布を取り出した。
「あっ、そうか。ここカード使えなかったんだっけ…。」
泣きはらした目で、財布にいくら入ってるのかを確認していた。
「あれっ?1,2,3,……。現金は3万円しかないのか……。20万くらい入ってたはずなんだけどどうしちゃったんだろう…。なんかわかんなくなっちゃった…。」
彼女はしばらくカウンターに寄りかかるように立っていたが、天井のダウンライトにぼうっと目をやって、何やら思い出そうとしているようだった。
「じゃぁ、これで…。」
ふと我に返り、お札を3枚無造作にカウンターに置いた。
「あっ、タクシー代もいるんだった。すみません。2万円にしてください。」
焦点の定まらない目で、呂律も回らない彼女は、1万円札を1枚つかみ、財布にぐしゃっと押し込んだ。そして、おぼつかない足取りで店を後にした。
明日からのことを考える気力など……、彼女にはもう、全く残ってはいなかった。