夫の自死後、鬱発症。 そこから8年。一家の大黒柱になり、看護師として働いている。 地域医療の発展と在宅医療、在宅介護の重要性が増していっている中、私は訪問看護師として働いてた。 そう、過去形。 寛解しつつあった鬱が悪化したので、現在は訪問看護師ではない。 「金曜日の14時訪問」 私の働いていた訪問看護は、看護計画などの担当はあったが、訪問は基本的に全員がどの患者にも訪問できるようになっている。 主に難病の患者、患児が多い中、少数ではありますが高齢者の訪問も。
久々にnoteに書きたくなったがタイトルが思いつかなかった。 『生きづらさ』にクローズアップしているココ最近の社会。 私的にはありがたい。 そう思ったのには理由がある。 「皆、何らか苦労している」は聞き手の視点。 夫の話を不幸自慢と捉えられることが増え、自己嫌悪に陥ることが増えた。 聞かれたことに答えた過去を、 「皆何らかの苦労してきたんだよ」 と返されると、 (あっ、なんかごめんなさい…聞かれたから答えただけなんです…) となる私はまぁ自己肯定感の欠片も持ってないのだ
祈り毎晩、旦那の遺影と位牌にてをあわせて、一日の報告をする。 一般家庭なら、夕飯食べながら、とか晩酌しながら、なんやろな。 他愛もない話。 声に出さず。 時々、旦那の名前を口に出すように意識している。 今日たまたま聴いていた、長渕剛の「祈り」は、旦那の通夜と葬式でずっとエンドレスで流していた。 あれほど聴いたのに、歌えない。 やっと10年。まだ10年。
先日、旦那の祥月命日、10回目を迎えた。 コロナ禍ということもあり、お堂には入れず。 遠く、外の階段の下から手を合わせていた。 お墓の前では、1年分の報告。 マスクの下でもごもご喋っている私は、はたから見たら読経してるように見えたかもしれない。 今、私は子ども達のためだけに生きながらえている。 生きるために泣いたり、独語が出たり、話せなくなったり、自傷したりしている。 理解はされない。それでもいい。 私は自分の感情のままに、破滅行動をする。 前はそんな自分が
この時期特有の何かがあるのか? 本当に季節の変わりめに弱く、鬱の身体症状、精神症状のすべてがのしかかってくる。 前に書いた、灰色のでっかいくず餅なんぞ比にならない。 灰色のでっかいくず餅は、精神症状が強い時にボテっと落ちてくるのでもがき倒す。 身体症状を伴っている今、そんな体力すらなく、そのうち逝ってしまうのではないかと。 未遂はしていない。 そのかわりに、髪を青く染めたり、ざくざく切ったり、散財しようとしたり。 代替行動をするのにも疲れてしまうけど、やめられな
今の仕事はわりかし大変。 生活介護の看護主任、支援員、サービス管理責任者、機能訓練計画案作成、請求業務、クレーム対応… 苦手な業務もある中でも、 「この仕事やっててよかった」 そう思える日がある。 クレーム対応は、 こちらの不手際の原因がわかる→対策を伝える→納得していただいたら最近の様子などが聞ける など、嫌なことばかりではない。 そりゃクレーム無いのが一番だけど。 ウチは重度心身障害のかたが多いので、保護者さんが疑問や不信に思うことはわりと率直に伝えても
「助けて」 この一言がなかなか言えない。 「大丈夫やで」 口癖。 本当は、心の奥底にある不安を吐き出したいし、それを受け止めてもらいたいとも思う。 言語化が苦手な私は、このnoteですら、思いを上手く表せず、 もやもやしたどす黒い何かと対峙している感じ。 対峙というより、蛇に睨まれた蛙。 成長のない自分にうんざりする。 氷みたいに溶けてなくなって、蒸発すればいい。
支援学校に通う2人の子どもを育てていて、自身の仕事も障害福祉。 新型コロナ流行の中、進路先に悩み中。 ケニーさんが障害福祉サービスの生活介護についてブログに書かれてあるので、一度読んでみてほしい。 子どもの進路に関して見学した事業所のこと 私が見てきた(子ども達の進路で見学してきたもの)の中に生活介護もあった。 ここで言う生活介護は、軽作業をおこなっている生活介護。 集団生活に慣れるための支援や作業に向き合う姿勢、気持ちが崩れてしまった時に適切な対処法を教えてくれ
遺品整理と不用品の片付けがおわりました。 埃臭い部屋を、ようやく窓に辿りついて換気。 途中割れたガラスを踏みました。ちょっと痛かった。 不用品は折ったり畳んだりしながら破棄。さくさくと作業は進む。 ちなみに私は片付けは苦手。やる気にならないとなかなかできない。 なんとなく左は急ぐ物、右は後で提出する物みたいな分け方が基本だった。 しょっちゅうモノも無くす。 終わりに近付いてきて、 父の最期の寝巻き 父の愛用ジャンパー 夫の最期のジャージ 夫の愛用のジーン
眠剤がどんどん効かなくなっている。 夜は危うい。 希死念慮が強くなる。 子ども達は隣で寝息をたてている。9年前までは、その向こうに旦那のいびきが聞こえていた。 今はまさしく川の字で寝ている。 幸せな時間なはずなのに。 その寝息に安堵しながら、私は最期を迎えたい。
今年のゴールデンウィークは何処にも行かなくて済む。 完全に外出自粛モードでいた私に降って湧いた話。 遺品整理。 何もかもを置いている。 よく着ていたジャンパー、使っていたモノ、仕事道具、作業服、普段着、下着、最期に見つけた時の服も。 もう何年も同じ部屋に置かれている。 目にしてはつらいけど、手放せない。 生きていた証がなくなってしまいそうで怖い。 今日で1/3ほど捨てた。 明日はおそらく全部だろう。 自分の記憶ほど曖昧なものなんてないと思っている私は。
生活介護の看護師を始めて8年経つ。もうすぐ9年。 途中、訪問看護で働いたりで、抜けていた時期もあったが基本的には生活介護での看護師の仕事が好きだ。好きだった。 今、思う。 生活介護の看護師の仕事が好きなのは、 「生活介護の看護師の私」は、「私が唯一必要とされる場」だったからだ。 旦那が亡くなっても、忌引きのみの休みで、働き続けて、現実から逃げていただけだ。 周りからあれこれ言われて、ぐちぐち思っているのは、少なからず私におごりがあった。 自己否定感ガチガチな私な
電話の向こうは男性の声。 着信は母からのはず。 聞こえたのは ジコ の二文字。 職場を飛び出し車を走らせた。 パトカー、消防車、救急車。 警官の指示も待たず停車し、救急車に走り寄る。 血まみれの母。 私の最後の肉親。 手を握ると握り返してきた。 意識レベルはⅠー1、感覚異常、視覚異常等なし。 頭部の血腫は皮下か。頭蓋骨内はCTだな…出血箇所は何処だ?後頭部か? 一瞬看護師になって母の状態確認してしまった。 頭部皮下血腫、後頭部の裂傷は大きく縫合した
私には「見捨てられ不安」があるらしい。 というか自覚している。 幼少期のどうたらこうたらとよく書いてあるけど、両親は私を大切に育ててくれた(と思う)。 症状に気付いたのは旦那が亡くなってからだった。 旦那に先に逝かれた。置いて逝かれた。見捨てられた。 自分が殺したも同然と言っておきながら、どこかにその気持ちがあった。 同時に鬱もあり、希死念慮から何度も自傷や未遂を繰り返し、ずっとカウンセリングを続けてきた。しょっちゅうカウンセラーは変わったが。 最後のカウンセリ
上の写真、手招きしているように見える。 最近思っていること。 なりたい自分がわからない。 そもそも自分てなんなのか。 というか、その日その時その瞬間に、自分の目の前にいる他者が、自分に何を求めているのか。 私はたぶん、その他者が求めている、「他者から求められている人物像」になろうとしている。 良い娘、良い母親、良い看護師、良い支援員 優しい娘、優しい母親、信頼できる看護師、心身ともに安心して任せられる面白いことを言う支援員 他者からの評価を過剰に気にしている。
手帳の申請が通りました。 まだ取りに行けてないので、何級かわかりませんが。 これで、ウチは家族全員が手帳保持者になりました。ある意味すごい。 カウンセリングの先生退職 うせやろ……?ってなりました。 唯一の自分の居場所、何をしても、何を話しても良い場所でした。 ずーっと、私の課題は ・知らないうちに抑圧した気持ちの表出 ・気持ちの言語化 ・罪悪感から解放される時間を増やす でした。進歩ない性格でごめんなさいね、先生。 今は息子がインフルBに罹患。 娘