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「赤い蝋燭と人魚」 -人間のエゴ・異形の怨み-

仕事に忙殺されてだいぶ時間が経ってしまった。
最近だいぶ暑くなってきたので、子供の頃読み、大人になった今でも恐ろしいと感じる話について書いていきたいと思う。

小学生の頃、学校の図書室で何とは無しに「赤い蝋燭と人魚」という本を手に取り借りてみた。
この本はタイトルとなっている物語のほか、童話が幾編かまとめられた作品集であった。
帰宅後、早速読んでみた。最初の話は「赤い蝋燭と人魚」であった。あらすじは以下の通りである。

北方の海に身重の人魚がいた。
人魚は自分が棲んでいる海の寂しい様子からこれから生まれてくる子供のことを憂いていた。
人間は優しい心を持っており、賑やかな明るい街に住んでいると聞いていた人魚は子を人間に託すことにする。
人魚の子は蝋燭屋の老夫婦に拾われて大切に育てられ、美しい娘に成長した。
人魚の娘は蝋燭に赤い絵の具で絵付けをするようになった。この蝋燭を街の神社へ納め、その燃えさしを持って海へ漁に出るとどんな時化でも帰ってくることができるお守りになると評判になり、神社と街は栄えた。
この話を聞きつけた香具師が蝋燭屋を訪れ娘を売ってくれと頼んだ。老夫婦は初めは拒んだが、法外な金に目がくらみ、娘を手放すことにしてしまう。娘は悲しい思い出の記念として赤く塗りつぶした蝋燭を残し、香具師に檻に入れられて連れて行かれてしまった。
香具師が娘を入れた檻と共に沖へ出た頃、真夜中に髪がずぶ濡れの不気味な女が蝋燭屋を訪ね、娘が残した赤い蝋燭を買って行った。その晩、海は大荒れになり、沖では多くの船が難破した。
それからというもの、街の神社に赤い蝋燭が灯ると大嵐となるようになり、いつしか、赤い蝋燭を見たものは海で死ぬという噂が広がった。
その後、幾年かした後街は滅びてしまったという。

この物語を読んで思ったのが、最初に持ってくる話ではないと思った。私がこの物語を初めて読んだ時、衝撃のあまり他の物語の内容が入ってこず、結局最後まで読まずに返してしまった。
確かに作者である小川未明の代表作と言える作品ではあるが、順番としては後ろの方が良かったのではないかと思った。

この物語を初めて読んだ当時、ずぶ濡れの不気味な女が蝋燭屋を訪ねたあたりから後の展開が恐ろしく感じた。大人になってからも読み返したが、やはりこのくだりは恐ろしいと感じる。

この不気味な女について考えてみる。
この女は物語の終盤に特に詳細も明かされず唐突に登場する。おそらく作者はこの人物が誰なのか読者に想像させたかったのであろう。
私は、この女は人魚の娘の母親ではないかと考えた。人魚の娘が自分を売り飛ばした老夫婦を恨んで再び訪ねたとも考えたが、蝋燭屋の老夫婦はこの女に見覚えがないようであり、また、この時人魚の娘は檻に入れられていることから、出ることはできないはずである。
この不気味な女が訪ねてきたのが娘が香具師と共に沖へ出た頃ということであるから、この時娘が檻に入れられ家畜のように扱われていることを知り、復讐するために老夫婦の元を訪ねたのではないか。

また、人魚の娘が産み捨てられていたのは街の神社であったという。この神社に納めた娘が絵付けした蝋燭が時化の時のお守りになったり、物語後半にあるように神社に赤い蝋燭が灯ると大嵐となるなど人魚が関わったものが御利益を与えたり災いを起こしたりすることから、この神社に祀られていたのは人魚なのではないかと考えた。
この物語は童話なので、そこまで深読みする必要はないと思うが、柳田國男は妖怪を零落した神であると定義している。人魚も妖怪であることから、同様のことが言える。
もしそうだとすれば、自分たちが祀っていた神を蔑ろにしたということになる。
祟りが起こって当然であろう。

小学生の頃は不気味な女や一連の災いの様がただ怖いと感じるのみであった。大人になってから読み返すと確かに怖いと感じるが、人魚の怨みや祟りはもっともだと思われた。
人魚の娘が絵付けした蝋燭が評判となるや周囲の人間は娘が無理をして絵を描き続けても顧みず、果てには売り飛ばしてしまう。老夫婦を含めた人間たちは、もともと心の奥底で人魚の娘は自分たちとは異なる異形のものとして区別していたのであろう。この人間の浅ましく利己的で非情な性質を持ち合わせているということの方が恐ろしいと感じた。

不気味な女が蝋燭屋を訪れた後、大嵐となり沖に出ていた船が多数難破したとある。これによって娘は母親の人魚と再会できたのではないかと想像した。
怨みは深く、荒御魂のままであるとしても再会できたことが少しでも救いとなったのであれば良いと思った。

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