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平和教育に対する批判

私は平和という言葉に対して胡散臭さを感じていた。

そのように思うようになったのは、大学生の頃のことである。
私が通っていた大学は、平和研究に力を入れており、平和研究に関する授業が必修となっていた。
内容はそれまで受けた平和教育よりも専門的となっていたものの、思想やイデオロギー的にかなり偏った内容となっており、私は受け付けなかった。思想の偏りによって「平和」という言葉が特定の思想を押し付けるだけの陳腐で胡散臭い言葉に感じられるようになった。

ただ、これまでの平和教育では触れられなかった日本という国が犯した「罪」の側面についても言及されており、考えさせられるものであった。

高校生の頃までに受けた平和教育は、語り部の話を聞いたり、遺構や資料館などの施設を訪ねて感想文を提出するというようなものだった。
この平和教育では、戦時中に起きた惨禍に注目するばかりで、日本の加害の側面やこの先戦争を起こさないためにはどうするべきかということが具体的に示されていなかった。

日本の平和教育は悲惨な出来事を語り継ぐということが目的となっているのではないか。

もちろん平和教育の内容は地域や教員によっても異なることだろう。
確かに戦時中の悲惨な出来事を語り継ぐというのは大切なことだと思う。

しかし、戦争を経験していない世代にとっては、戦争体験者の話を聞いても想像が及ばないところがあるし、人によって捉え方も異なる。
ただ、こんな悲劇があったと心情に訴えかけることのほかに、戦争を起こさないためにはどうするべきか、戦時となった際にどのようなことが起きるのか、戦争に負けるとどうなってしまうのか、そして戦争となれば勝っても負けても必ず加害者となるといったことについて具体的に教え、考えるべきではないか。

また、国防という観点も教え、考えるべきだろう。自国が戦争をしないよう注力していたとしても国土が侵されてしまうことがある。そのような状況下に置かれた時、反戦を訴えかけるだけでは敵性国を動かすことはできない。最悪敗戦ともなれば国土や人権、文化の保証は期待できないだろう。こういった事態を避けるため、戦争となってしまった場合は必ず勝たなければならない。

そのために、地政学や軍事史といった視点も平和を考える上で必要なのではないか。
対象国の目的や動向を分析し、歴史からどのようにして自分たちの国を守るかということを考える機会も必要だと思われる。

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