見出し画像

受け手になるな、狂え

なにかするとき、意思の低さが目に余る。机に座って作業をはじめても、いつの間にか自分の思考は途切れ、漠然と疲れてきて次の面白い何かを探し始める。

続けるために意思のいるなにかの始まりはたいてい楽しくない。素晴らしい音楽を作りたいけれど、きっとそれを作る過程はとっても面倒くさくて疲れる。今保留している、ネットにある論文をスライドにまとめて紹介するというなにかも、自分が作り上げた完成形を眺めるのはすごく楽しいのにまとめて作り上げる過程を耐えられない。絵だって小説だって同じ。

だから受け手になり下がる。受け手なら誰かが作り上げた完成形を、何個も何個も楽しく見ることができる。ずっと楽しい時間が続く。今日もたくさん時間を浪費してしまった。気をつけよう。


受け手と作り手、どちらにもなれる僕たちが後者になるには何が必要なのか。どうしても表現したい何かがないといけないのではないかと思われがちだが、そんなことはない。現に作ることが大の苦手の僕が、noteを1年半も続けられている事実から、上の仮定は簡単に否定できてしまう。

とすればモチベーションの問題ではないか。これまで散々話題に上げてきた、誰かのための努力。推しがいれば、愛する人がいれば。たらればで語っても仕方ないけれど、失いたくないものを手に入れた人間は強いと、周りを見ても思う。それだけで自信が感じられる。負けそうに、めげそうになったときに、きっとその人の顔がふっと脳裏に浮かんできて正気を取り戻すのだろう。しらんけど。

では孤高の天才は。
誰にも愛されず、誰も愛さず、それでいてとんでもない偉業を成し遂げる狂ったような人間が、世界には幾らか存在する。
それを説明する術を考えて、狂気だと思った。


そこには矛盾に覆われた自己愛が含まれている。自分が好きでたまらないのに、自分が嫌いでたまらない。撞着語法を使っているわけではない。同時に存在しているだけだ。そして狂ったように笑い、唸り、動き続ける脳を持ちながらも、狂ったように笑い、唸り、動き続けるその主体を誰にも見せないように努力する。それこそが真の狂気であり、作り手であるところの僕にいちばん近い感覚である。

狂人になることはしかし容易いものではない。失うものを全て無くしたそのときに自分の中の倫理に反した部分が真皮のように顔をだす。そこまで到達しながら、それでいて自分を表向きにはまともに保つ必要がある。今はまだ、失いたくないものがある。それを無くして初めて、僕は目を白く剥いて、タオルを破り捨てて、暗い部屋の中で跳躍しながら発狂をし続け、誰でもないものに中指を立てる。

狂え。
それだけが僕の希望だから。

いいなと思ったら応援しよう!

うつろの雑談部屋
あなたの力で、僕が何かをなすかもしれません