大学院の存在価値の変化
一昨日から今日まで、大学院の特別講義がありました。
特別講義というのは、他の大学や企業で働いている方に教鞭をとっていただく授業のことです。講師の方だけでは大学のことが何もわからないので、本学の教授が世話人として講師と生徒の間を取り持ちます。2、3日で合計10コマ前後で終わるので、コスパが良く僕も5つくらい受講しました。
今回が最後の特別講義なのですが、全体通して思うのは世話人の先生と講師の先生に繋がりがある場合が多いこと。個人的な繋がりが理由で呼ばれている人が多いのは事実でしょうが、それにしても同じ大学の同じ学部出身だったり、異なる大学で同じ部活のキャプテンをしていたりと、出来過ぎな気もしてしまいます。類は友を呼ぶ、ということなんでしょうか。当時は大学院に進学する人も少なかったでしょうから、「院進≒教員を目指す」という計算式がもしかしたら出来上がっていたのかもしれません。
ふと前の学生のPCに目をやると、カタカタと何かを打ち込んでいます。おそらく秋冬インターンのES (エントリーシート) です。またある人は模試の採点をしていたりします。
書きながら、採点しながら講義も聞く、そんなことできるはずがないですね。大学院生がこんなことしてていいのでしょうか。
このようなあまりにもお粗末な受講態度を産んでいるのは、「単位を取ったら卒業できる」という大学の制度でしょう。特別講義では極端に難しい課題が出されたり、テストが催されたりすることはありません。つまり授業だけとって聞いているふりをしてサボり、感想や質問だけそれっぽく書いておけば単位は取れてしまう。その方がもっとコスパがいいのです。
そしてこのことが今、大学院生が増え、院進しても就職することが難しくなっている理由だと僕は予測しています。AIの台頭によって一生涯同じ仕事をすることはもはやほとんど叶わない中で、どうにかして大学院生という肩書きを得ることで就活とその後を有利に進めたいと思う若者が増えました。ところが大学院生というのは昔はそこまで多くもなかったわけで、そんなにたくさんの人を歓迎するほど決して楽なものではありません。
学術系の就職先に進みたい人以外は、院進しても研究はおざなり、授業もろくに聞かないで就活にバイトにとパソコンと睨めっこ。結果として授業で学びとらないという本末転倒を生み出しているわけです。これではもはや大学院という存在が、理系学生のモラトリアムとしてしか機能しなくなっているようにも思われます。
かくいう僕も、モラトリアムがほしくて院に進みました。働きたくなくて、でもニートになりたくもなくて。そんなどっちつかずのダブルスタンダードが、大手国立大学にも散見されるのが現状です。
日本の未来は、これいかに。
当事者として責任感を抱きつつ、おそらく流れを止めることはできないでしょうから、未来を案じるだけ案じてみます。
後ろめたいのでとりあえずニートにはならないようにします。
おわり。
あなたの力で、僕が何かをなすかもしれません