タダ書き、あやなれ
こうして「書く」ことは自分と向き合うこと。
ブログにあわせて、久しぶりに日記を記してます。
それはとても単純な記録で、「日々、~をしよう」と決めたことや習慣づけたいことを、やったかやらなかったか。実践するなかで、気づいたことは何かを淡々と記すようにしてます。
あんまり氣会い入れすぎると、ちょっとしたときにくじけそうにもなるし、ひとまずこれくらいのやりやすい感じでいってみてます。
継続する、ってことに価値はあるはず。
で、こうして書いてますと、思考は整理されます。人によっては、こうして書くことが自分の理想実現に向かうともいってくれます。
そんな日記は記録。
日々のこと、何をしたか。
「タダの言葉」の集まりです。
でも、それが栄養素となり思考を磨いているような、そんな感触もあります。そして、これを集まるとどんな物語が編まれるのか。いつしかタダの言葉は、「あやの言葉」になってゆく。
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フィギュールといふのは、姿のことである。(中略)
フィギュールの日本語に最も近い和語の概念は何かといふに、お
そらく「あや」(文・彩・綾)なのだ。本居宣長は事実を知るに
は「タダの詞」でよいが、歴史の心や文化の魂に接するには、
「あやの言葉」によるしかないと断言した。
『フィギュール』ジェラール・ジュネット
https://1000ya.isis.ne.jp/1302.html
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蓄積は多いほどに、あやの言葉は深みを増してくはずだ。春に始めたこの蓄積。私の歴史や心に接するくらいに、タダの言葉があやを編むのはいつ頃かな。
楽しみだ。