【7日目】交換日記の難しさに関して
─執筆者 國井─
3人の船頭
船頭多くして船山に上る、とは言いえて妙だ。すべての乗組員が船頭になってしまえば、船は制御を失うだろう。
そうであるならば、筆を持てば誰しもが船頭になりうる交換日記もまた困難な作業である。担当の執筆者は、さながら船頭のごとく、誰にも邪魔されず、思うままに言葉を紡ぎ、別の船頭に託す。
そして今、例えるならば3人の船頭が、2つの航路を巡って対立している。僕もまた船頭として、船を座礁から守らなければならない。
みんなの論点のまとめ
まず始めに、僕たちの中で生じた意見の相違を簡単にまとめてみようと思う。
國井
僕からすれば、交換日記とは、複数の執筆者が1つの作品を生み出す行為である。この時に重要になるのは、各人の応答性だろう。担当の執筆者が、前回の投稿に向き合い、応える。そのことによってのみ、本来は断裂している2つの投稿が接続するのだ。
もし、それぞれの投稿をこの断裂から救えない場合、僕たちの交換日記は個人のアカウントで投稿する備忘録となんら変わらぬものとなる。これは、アカウントを共有した意味自体を揺さぶるのではないか。少なくとも私はそう思っている。
一方で、君たちはそうは思っていないらしい。つまり、この断裂にこそ意味があるのだ、と。
Taka
Takaさんは、交換日記を何気ない日常の報告の場とすることが、ベールに包まれた各人のパーソナリティを暴露することにつながる話す。
ちんこ
ちんこさんは、ナンシーの「無為の共同体」を軸に反論を展開する。愚生には到底理解のできない難解なメッセージであったため、ネット上の文献を参考にその意図を解釈してみる。
近代的な共同体は求心力を有しており、僕たちの生きる意味といった重要なメッセージさえ内包していた(有為の共同体)。一方で、共同体を個人単位で分割する個人主義の絶頂でもあった。この矛盾を両立させるに試みこそが全体主義であった。
ナンシーは、そもそもこうした共同体観を否定する。つまり、共同体とは、求心力によって成立するのではなく、構成員の異質性によって成立するのだと。つまり共同体にとって目的とは本質的なものではないということだ。簡単に言えば、僕たちは同じ共同体にいるけれど、同じ方向は向く必要はない。共同体は、各人の特異性を飲み込むほどに根源的なものであるのだと。そして、相互が自らの特異性を露呈することは「歓喜」であり、「情熱」となって、なお一層に結束を強めるのだと。
相互の露呈がどのようにして歓喜につながるのかは、前回の投稿からも、ネット上の文献からもよくわからなかった。これを突き詰めて調べる気力も知能もないが、内容はおおよそこのように理解した。もしかしたら、その理由はTakaが直感的に感じ取り、前回の投稿で説明しているのかもしれない。
応答
二人の意見はもっともである。だが、いずれも僕の意図する応答性への反論とはなりえていない。つまり、応答性、連続性を重視したところで、何気ない日常の報告が不要となるわけでもなければ、有為の集団になることもないからである。
それはなぜか。日常の風景と、応答性は矛盾しない。また、連続性を有する交換日記は、必ずしも有為とはならない(我々がこれまで有為の集団になったことなどそもそも一度だってない)。説明しすぎないところが僕の悪いところだとは承知の上で、これ以上の説明は不要だと思う。随分と長文になって、疲れてしまった。
最後に
メッセージが企図せぬ形で君たちに伝わって、傷つけてしまったことをお詫びしたい。君たちの人格を否定するつもりは毛頭なく、ただ一人の執筆者の立場で問題を提起したつもりだったのだ。僕は決して君たちを上に見ていることはないが、だからといって下に見ていることもないというのは紛れもない事実だ。
ただ、問題提起は決して無駄でなかったと僕は確信している。君たちが望むと、望まざるとに関わらず、君たちの投稿はより一層の応答性を含んだものへ変わった。その証拠に、今僕は何度も君たちの投稿を見返しながら言葉を紡いでいるのだ。
そういえば、ちんこさんからペンネームの改名頼まれていたんだった。
矛盾する言葉をつなげて違和感を楽しむ言葉遊びはご存じかな? 例えば「不幸なお金持ち」のような。これは、その言葉の背景にある時代の価値観を可視化させる有効な手法の一つでもある。
そこで、アンチモダニストの君にこんなのはどうかな?
BB(=BigBaby(でっかい赤ちゃん))