【15日目】「自分らしさ」の嘘
ー執筆者 國井ー
回想
一昨年の秋に、小学校時代の友人エスに会った。僕の記憶している限りでは、エスはなかなか面白いやつだった。小学校卒業前に、子供だけで卒業旅行を企画する委員会を自発的に組織し、遂行した。12歳の子供が、大人の力を借りずに30人規模のクラスをまとめ、企画を立て、遂行するという行動力に、僕は子供ながら「すげー」と思ったものだ。ほかにも、「将来は泥棒になりたい」とか言ってた。将来泥棒になりたいって、これもやっぱり「すげー」。 そんなこと考えるやついるんだなと、その感性に嫉妬していたのかもしれない。
小学校卒業後は、エスは私立中学を受験し、僕は公立中学に進学したので、疎遠になっていた。
大学に入学してまもなく、エスからメールが届いた。エスは「ばんから」で有名な某難関私立大学に入学したらしく、久々に会おうとのことだった。
それでいざ会ってみると、かつてのエスとは少し違った気がした。そんなもので「最近は調子どう?」みたいなこすり倒された文句が自然とでてきた。そうするとエスは「周りの環境に抑圧されてうまくいかない、今の俺は本当の俺じゃない」みたいなことを言っていた。
今日のテーマ
「本当の自分ではない」とは、説明が必要な言葉だろう。この言葉を使う時はたいてい「本当の自分」と「憧れの自分」とが混同されて使われているからだ。右が存在しなければ左が存在しないように、そもそも「偽物の自分」なんてものがないのだから、本物があろうはずもない。僕は僕以外になることはできない。
であるから「自分探し」という言葉も怪しい言葉だと思っている。インドに自分探しに行く人がいたら「それじゃあ今、僕が話している君はだれなの」と尋ねてみてほしい。
「本当の自分」という言葉から垣間見えるのは、理想と現実のギャップに打ちのめされた、ある種のルサンチマンだ。つまり「俺だって本気をだしたら~」という常套文句と変わらない。
「自分らしく生きる」という言葉も、何かしらの理想を前提としている点において同じ文脈が通用するだろう。
ところで、先週Takaが引用していた「他人は地獄である」というのは、実存主義者のサルトルの言葉である。私の人生を生きているはずなのに、他人のまなざしに入ることで、他人の人生を生きることになるということだ。彼らしくマルクス的だとも思う。
社会生活を営む僕たちは、直感的にこの意味を理解できるはずだ。やりたいことや、やらなきゃいけないことがあるのに、人間関係の網の目に絡まって身動きがとれなくなる。そういう話は珍しいものではない。
偶然か必然か、このサルトルの話に対する僕の見解はレヴィストロース的なものだ。つまり、僕たちは、一般的に想定するような自由の主体ではない。「本来の自分ならば他者の目を免れて完全に自由になれる」と想定することは、永遠にたどり着かないゴールを目指して走ることを意味する。そうであるから、「他人の目を気にしない、解放された本当の自分」にはいつまでたってもたどり着かず、そのギャップの苦しみは消えない。
もちろん僕にも、人並みに悩みがある。それで日々、人並みに理想と現実のギャップに苦しむのだ。そんなときは、弱くて惨めな自分に、まっすぐとまなざしを向ける。他者のまなざされた僕を、今度はそれごとまなざすというわけだ(疎外された自分を、再度私有化する)。これは究極的な、自分への肯定だと思う。そして思う。ああ、なんと僕らしいのだろうか、と。これがおそらく、弱い人間でありながら自信家であるという私のパーソナリティにおける矛盾を成り立たせることになるのだろう。
気づけばずいぶん説教臭くなってしまって申し訳ない。何が言いたいかといえば、今の自分は否定する必要はなく、むしろ受け入れてみるのはどうだろうか。少なくとも、思考の出発点をここに置きなおすことは現状の改善に大きく寄与するはずだ。
余談
これは余談だが、まなざしといえば、僕の投稿はいつもhimeさんのイラストを目を上で半分見切れるように使わせていただいている。実はこれ、このキュートなイラストのまなざしで、投稿を内部完結させずに、無限に地平につなげたいと思っているのだ。