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【19日目】革命家を諦めた22歳のボヤきー少年革命家ゆたぼんへー

ー執筆者 新井ー

はじめに

 一度、議論をまとめる。17日目でTakaは我々に問う。なぜ高校に行く必要があるのか。なぜ大学に行く必要があるのか。この教育機関で生徒たちに問われるであろう最も根源的な問いに、塾講師であるTakaは答えられないのだ、と。時を同じくして、昨今話題になっているYoutuber、少年革命家ゆたぼん(以下「ゆたぼん」と記す)が中学校には行かない選択をしたことが話題になっている。これに対し、様々な論客が批判したりしているが、國井は、この批判は意味がないと一蹴する。そもそもこの批判からあぶれた人間が学校に行ってないのだから、この批判は何の意味も持たない、と。僕もこれに関しては賛同する。この批判では、ゆたぼんは聞かないだろう。それにゆたぼんは、動画でも触れているが、確かに学校に行っていたのでは経験していないような様々な経験をしている。そこから何も影響を受けていない、学んでいない、という批判は無理がある。

 しかし、本当に問わなければならないのは、以下のようなことではないか。なぜゆたぼんが登場したのか。ゆたぼんの意見が意味を持つ「社会」とはどんな社会なのだろうか。

「将来困ってもそれも自分の責任やから」

 ゆたぼんの主張のロジックは概ね以下のようにまとめられる。まず、①俺は学校に行かない。②なぜなら小学生の頃に、先生に暴力を振るわれ且つそれを指摘しても否認した、③そして、宿題を行っている同級生が先生に従うばかりの「ロボット」に見えたから、④家あるいは学外で学習はしているし、⑤「結局、自分の人生の責任は誰も取ってくれへんねんから/自分でやりたいことをやりながら/楽しく自由に生きるのが俺は大切」(『炎上している件について』, 2021, HP下部にリンクを記載)だと思っている、と。以下のようにゆたぼんのロジックを分解した時、僕は①〜④は本質的には彼の勝手だと思っている。しかし、⑤だけが、腑に落ちない。ゆたぼんは先の動画で言う。「学校に行かんくて困ってもそれは自分の責任やし/逆に親とか大人の言う通り嫌々学校に行って/将来困ってもそれも自分の責任やから」。彼を貫く「自己責任」ロジックだけが、(これは僕の政治思想と絡んでくるのかもしれないが)気に入らない。そもそも本当に自分の責任を全て取ることは可能なのだろうか。彼に問いたいのはそのようなことだ。「自己責任」は、通常、以下のようなロジックで立ち現れる。「私の意思」で決定したことなのだから、どのような帰結になっても「私が責任」を取るのだ、と。このうち、前半の「私の意思」と言うのは大分怪しい。國分功一郎が明らかにしたように、自由意志のロジックとは、極めて近代的(新自由主義的)なものであるからだ。(國分, 2017)例えば、彼がゆたぼん家にではなく、別の家に産まれていたとしよう。それでも、彼は学校に行かない選択をしていたのだろうか。Youtube活動をしていただろうか。「人生は冒険や」と言っていただろうか。恐らくこの答えは、限りなくNoに近いだろう。ゆたぼんが他の家に産まれてれば、ゆたぼんは楽しく、毎日学校に通っていたはずだ。繰り返し述べるが、それが良い、そうするべきだ、と言いたいのではない。別に学校に行っても行かなくても僕はどちらでもいいと思っている。

 彼が産まれてきたのは、彼の「意思」なのだろうか。彼が選択して、「学校に行かなくても良いと思っている夫婦」を選択して産まれたのだろうか。そんなことないだろう。また、我々の普段の生活も、全て意思で動いているのだろうか。そんなものがあれば、恋は落ちるものでは無くなるだろうし、依存症はあっという間に治療可能だ。彼はどの程度自分の意思で、「学校に行かない」という選択をしているのだろうか。懐疑的だ。

「父権」の撤退

 そして、また、僕が問題にしたいのは、ゆたぼんの父だ。ゆたぼんの父は、彼に自己選択を強いる。かつての社会は「パターナリスティック(父権主義的)」な思想で運営されていた。文字通り、「父」が、「こうすればお前はもっと良くなるのだから、事前に選択しておいたぞ」というロジックだ。僕は、これは、僕の政治的思想と相反する形で、社会に必要であると思う。知識や経験の蓄積された「父」が正しい方向に導くことは、社会において必要なことではないだろうか。そうでなければ、一体どのように我々は自分の参照点を決定できるのだろう。先に、僕はゆたぼんの父が彼に自己選択を強いていると述べた。例えば以下のツイートを見て欲しい。

 まず、「その子が信じる道を歩かせてあげればいい」、これには賛成だ。しかし、その一方で、我々大人は、その「信じる道」の数をある程度絞らなければならないのではないだろうか。そうでなければ、僕が16日目で主張した、「自由の牢獄」(エンデ)になってしまうし、何よりも「信じる道」が社会から逸脱していても、それを賛同できるのだろうか。ゆたぼんの父は「自己責任」病故に「無責任」なのだと、僕は思う。だから、ここからは僕の勝手な意見に過ぎないが、親あるいは、「父権」的なる者の役割は、「お前が、数多ある道から自分で決めて自分で責任を取る」のではなく、「俺が、数多ある道から何本か選んでおいたのだから、あとはお前が、好きな道を選べ。どの道を選んでも、道を選んだのは俺なのだから俺が責任を取る。」というものではないのだろうか。それこそ以前僕がこのnoteでも書いたが、D.ウィニコットのテーゼ「子どもは誰で一緒にいる時に、1人になれる」が全てを物語る。ゆたぼんは恐らく、本当の意味で、1人になれない。ゆたぼんの父の「父なる場」には、「父権」が撤退し、代わりに居座ったのは「自己責任」ロジックだ。僕はこのことこそ、ゆたぼんの言動の根幹を流れるものであると思う。

最後にー少年革命家へー

ゆたぼん、実は、僕もかつて本当に革命家になりたかった。しかし、この大学4年間で考えに考え、それを放棄した。まず、革命はそんなにすぐ起こせるものではない。(デカブリストの乱をロシア革命の端緒と捉えれば、凡そ足掛け100年掛だ!)だから僕は、取り敢えず当面の間、社会全体を変えるのではなく、僕の周りにいる本当に大切な人たちをより生きやすくすると言うことを目標ににシフトした。(隣人1人変えられない人間が社会を変えられるだろうか!)

 それでも、ゆたぼん、君は革命家になるのだろう(既に革命家なのかもしれない)。それは全力で応援したい。これは本当だ。しかし、ゆたぼん、君の革命のヴィジョンが「将来困ってもそれも自分の責任」と投げ捨ててしまうような、<他者>に共感の無い社会構想なら、僕は君が革命で作りたい社会には賛同しかねる。

 そして何よりも、革命は「他者に明かりを灯すこと=enlightenment=啓蒙」なしには為せない。ゆたぼん、君が起こしたい革命を起こすためには、残念ながら、皮肉にも”教育”が必須だ。22歳の書いた駄文が、13歳の若き革命家に届くことを祈ろう。ゆたぼんは匿名で批判されることに対してフェアじゃないと言う。そこで僕も自らの名を明かして、公然と、彼に向き合おうと思う。

参考文献

國分功一郎 2017 『中動態の世界ー意志と責任の考古学』, 医学書院

少年革命家ゆたぼんチャンネル 2021 『炎上している件について』, https://www.youtube.com/watch?v=s-n6pC-LkUU

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