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【6日目】無為の共同体としての「あまりもの」、あるいはTaka批判論

ー執筆者 ちんこー

 お待たせいたしました、お待たせし過ぎたかもしれません。どうも、ちんこです。この名前、そろそろ変えたいので國井君、まずは僕のペンネームを次回のnoteで命名してください。以後、とりあえずそれにします。

 まず、僕がこのnoteで話したいことを話す前に、一つの補助線を引きましょう。それはジャン=リュック・ナンシーが『無為の共同体』で述べている「分有partage」という概念です。我々は如何にして”我々”という共同体意識を持つのでしょうか。ナンシーは、歴史や神話を共有しているから共同体意識が生まれるのだという理由は避けます。そこでナンシーが持ち出すのが「分有partage」です。これは些か雑な要約ですが、「我々は一人一人が確実に分かれている。しかしその分かれている経験だけが皆に共有できるものだ。」というものになるかもしれません。一度敷衍しましょう。例えばここに一枚のピザがある。それを皆で食べる。僕は「美味しい」と思う。しかし、右隣の人は「まずい」と思っているかもしれないし、左隣の人は「玄関の鍵を閉め忘れていることに気にかけている」かもしれません。とにかく、我々は分断されています。しかし、我々が「別々のことを考えながらもピザを食べた」という経験だけが皆に共有されています。このようにナンシーは、個々の思想やイデオロギーの共有よりも、「分裂・分断されている経験が共有されていること」を「分有partage」と呼び、そしてそのようの共同体を「無為の共同体」と呼びました。

 さて、ここまでくれば僕が今日伝えたいことまであと一歩です。国井くんは4日目に、我々は各noteがとっ散らかっていると言いました。ここまで読み進めた皆さんはもうわかるかもしれませんが、僕はそれでいいと思います。各々が好き勝手書くこと、各々の思っていること、感じていることが違うこと、それこそが「あまりもの」の共同体をより強固なものにするのです。だから我々にはメンバーの頭文字を取ったようなグループ名がありません。しかし、それこそ、余っているという事実、その経験こそ、我々をより結びつけてくれるのです。

 Takaは5日目に言います。

 この亀裂を修復、乗り越えることで僕たちは以前よりもずっと強固な絆を手に入れられると思っています。そのために何が必要なのか。 
 僕は、僕たちの歴史を振り返りたい。歴史を振り返ることで今の現状に還元できるものがあるのではないかと考えています。
 些細な歴史でも良いので3人で振り返り、僕たちの関係性をよりよくしてきたものは何か、これを明らかにしたいです。

 どうでしょうか。この宣言こそイデオロギーに結びついた共同体の結束を促すもの以外に何と呼べるでしょうか!さらにTakaは我々のオープンキャンパスの思い出を持ち出します。

連日連夜、徹夜でオープンキャンパスをより良くするためにミーティングしました。國井はパンフレット作成に従事し、誰が見ても満足できるパンフレットとは何かを突き詰めていました。○ん○はオープンキャンパスの代表者という立場で、学生や教職員側の両方から板挟みになって、両方が満足できるオープンキャンパスの企画に四苦八苦していたのが記憶に新しいです。

 まず、初めに言いましょう。これは全て嘘です。こんなに真剣に我々はオープンキャンパスに取り組んだことはないですし、四苦八苦もしていないです。Takaは、我々の結束を高めるために虚偽の歴史を持ち出しています。歴史修正主義者です。もう一度言います。我々が「あまりもの」として、結びついているのは、何か強固な目標があるからではありません。「あまってしまった」、ただその事実のみが、我々の結束を強くさせるのです。

 さて、次回は國井くんです。どのようなnote投稿になるのでしょうか。そして我々は無事に6月にディズニーに行けるのでしょうか。

私は他者のうちに私を再発見するのでも、私を再認するのでもない。私は、他者のうちに、あるいは他者によって、「私自身のうちで」私の特異性を私の外に置き、それを果てしなく終わらせる他性と他化を体験するのである。共同体とは、他と同が似たものとなっている、つまり同一性の分有となっている特異な存在論的機制である。
『無為の共同体』p.61より

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