【16日目】エンデ『自由の牢獄』と「自分らしさ」
ー執筆者 BBー
1. はじめに
面白そうなテーマで僕に記事が回ってきた。前回の記事で國井くんは言う。「自分らしさ」というものは幻想だと。まずは「今・ここ」にいる自分自身を受け止め、進むんだ。あるいは進むしかないんだ、と。僕自身も以下の記事で同じようなことを書いたことがある。
再び繰り返す気もないが、國井くんの意見には正直言って全面的に賛成だし、これといって何か言うこともない。だから、今日はここでnoteを終われせても良いのだが、少し補論という形で、論を進めたいと思う。
2. 『自由の牢獄』
この論をもう少し厳密にするために、あるー大変寓話的なー物語を紹介したい。それは児童作家界の大家、ミヒャイル・エンデの『自由の牢獄』だ。「自由」と「牢獄」は相反する言葉であるように思える。「牢獄」は「自由」を奪うためにあるものであり、「自由」とは「牢獄」から抜け出したもののことであると考える。しかしーここが大変寓話的なのだがーエンデの主張はそれとは異なる。詳細なあらすじは各々是非読んでほしいのだが、主人公は、最終的に、ある場所に閉じ込められる。閉じ込められると言っても、その場所は、数多にどこか通じている出口がある空間だ。要するに、何十にも岐路がある状態だ。主人公は、そのうちどれか一つを選べない。あまりにも選択肢の数が多いのだ。選択肢の数が多いために、どれも選べない。それこそが「自由」の「牢獄」だ。僕は今日の「自分らしさ」の嘘(國井)は、ここに問題がある気がしてならない。我々が主体的に選択できる(と思っている)社会ー脱埋め込みの社会と言っても良いかもしれないーは、逆に閉塞感を生み出してしまうのではないか。大量に巷に溢れる「自分らしさ」の言説は、以上のような現象の結果ではないだろうか。
3. 就職活動における「自己分析の牢獄」
さて、具体例で以上のような出来事を示そう。現代の就職活動において”必須”とされているものがある。それが自己分析だ。(この自己分析はマジ気持ち悪い。こんなのを真面目にやってる奴らって本当にバカだと思っている。炎上しないかな。(心の声))さて、自己分析について僕が説明するのも大変時間の無駄なので、イメージがわかない人はは以下の(キモい)サイトを何個か見てくれれば幸いである。
これは序の口だ。このnoteにも、大量の(キモい)就活言説で溢れかえっていて、その多くは自己分析の重要さを語っている。(余談だが、なぜ人は「就活」の経験を饒舌に語るのだろう。いつかこのテーマも考えたいが、ここでは暫定的に答えを出す。「就活」という”固有性”を剥奪されるライフイベントにおいて、今一度かけがえのない”固有性”を復活させるためではないか、と。)
基本的に現代の自己分析は以下のために行う。①過去の自分がどのようなことに喜びや感動を覚え、②今の自分が①を参照点にした上で興味のある物事を選択し、③これからどのような職に就きたいか/向いているか、を自己に問うためだと。ここに就活市場が就活生に強制する「自己のテクノロジー」(フーコー)を見出すことが可能だが、本論の筋とは異なるため、いずれ論じようと思う。
そして就活生の多くは自己分析を通して、「自分らしく」働ける職を探す。(その結果が、3年離職率が3割だと言うことは何という皮肉だろうか!)就職活動における自己分析の意味の変遷は香川[2007]を参照してほしいが、香川の議論を些か雑に要約すると、以下のようになる。自己分析は新卒採用を取り巻く環境の変化(売り手市場→買い手市場)に伴い、自己分析は「あなたの本当にやりたいこと」を見つけるツールと化し、学生と企業のミスマッチを防ごうとするものであったと。
これこそ正しく「自由の牢獄」ではないか。かつて、今のような自己分析が流通する前、就職活動は、例えばゼミの先輩のつてや、教授からの紹介、あるいは親のコネで、その殆どが決定していた。そこにおいて、全く主体性や選択はなさそうだ。その先輩が先輩であったから、その教授がその教授であったから、親が親であったから。言わばトートロジカルな理由で自らの職が決定していたし、それでもー恐らくーそこまで問題はなかった。しかし、今は違う。「自分の中にある”かけがえのない”自己」が求めている自分らしい職に就く、のだ。もちろん國井くんも言ったように、「自分らしい」は嘘だ。選択肢が大量にありすぎて、何も選べない。選ぶために自己分析をするが、それは「自分らしさ」を探すものであって、「「本当の自分」と「憧れの自分」とが混同されて使われている」(國井)ため、怪しい言葉だ。
4. 「不自由」だけが「自由」にする
長く書きすぎてしまった。まとめよう。僕が國井くんの議論を延長して言いたいことはこうだ。「自分らしさ」は嘘だ。なぜなら、「自分らしさ」は主体的に数多ある選択肢から選択するものであるため、実はいつまで経っても正解に辿り着けない。それは就職活動における自己分析からもわかる。本当の<自分らしさ>はそうではなく、言わば受動的に与えられたものからのみ出てくるものなのではないだろうか。そもそも我々はなぜ生きているのだろうか。主体的に選択したのだろうか。いや、全く違う。我々は、その生まれからして受動的だ。(丸山眞男も『「である」ことと「する」こと』内で言うように、出自は「was born」としか表現できないのだ。)しかし、その圧倒的な受動性、選択不可能性を受け入れてから、自らは主体的になることができるのだ。その点で、僕は國井くんの意見に賛成だ。話は全く進んでないが、これをもって16 日目を終了する。次回は「世界遺産で脱糞!?どうするBB!?ー脱糞物語2009」を披露したいので、それに合わせて2回をうまくまとめてほしい。
参考文献
ミヒャエル・エンデ 2007 『自由の牢獄』, 岩波書店
香川めい 2007 「就職氷河期に「自己分析」はどう伝えられたのかー就職情報誌に見るその変容過程」, 『ソシオロゴス』 (31):137-151
丸山眞男 1961 『日本の思想』, 岩波書店