【24日目】空転する大学生
ー執筆者 國井ー
アカデミックな世界や実践から切り離されたもの、小学校から高校までの受験に向けた線分的なもの、クローズドでガラパゴス化したもの、一問一答的な柔軟性に欠けた丸暗記、それを日本型の教育と呼ぼう。究極的な中国の天才教育をこれに対置したい。その中で育った私たちは、無垢な子供たちの「なんで勉強しなくちゃいけないの」という問いに答えを窮する。用意できるせいぜいの回答は、「これを頑張れば、将来良い仕事に就ける」といったところだ。
ただ、それを聞いても子供たちは困惑するだろう。テストでよい点を取ることと、良い仕事に就くことの間には、本来なんの因果関係もないからだ。複雑な英文法や、微分・積分、歴史などを学んだところで、何一つ直接的に役には立たない。日本型教育に捉えられてしまえば、それらは大学受験以降は一切の意味を持たなくなってしまうからだ。
受験を終えれば、ある時点から就活を初めて、その後に業界を研究し、「自己分析」を繰り返し、手に入れた学歴を首からかけて、きれいに飾った言葉を準備する。その後に待つ就職のみが、私たちの為す日本型教育に意義を付与する(テスト勉強→高学歴→大企業)。
日本型教育がクイズ化することで、階級のスライドを可能にしているという批判は、白昼の夢のごとく消え去る幻想である。「公教育が平等を生み出す」という残酷なレトリックの下で、ガラスの天井が生み出されている。Takaと私が同じ大学に通うのは、私には才能がなく、努力を怠ってきたからであり、Takaが秀才であり、勤勉であり、最低の受験料・入学金・授業料を準備できたからだ。学歴とは、特殊な例を除けば、親の年収が高い学生から順に振り分けれらるのである。ただ、その特殊例さえ、例外なく教育のロジックに従順であるのだ。
以上が紋切り型で凡庸な批判だが、残念ながら未だに明確な答えを社会は用意できずにいる。ゆえに受験生たちが語る志望理由は大概嘘であるし、私が常に抱く「大学生」への侮蔑もこれに由来する。であるから、大学は修学の場ではなく、就職の場というのは事実だ。和を以て貴しとなす日本的な美徳のみが、この空虚なモラトリアムを擁護する余地があるだろう。ただ大学生たちは、まさしく近代が陥ったように、合理化を繰り返したところで、最終的な意義を非合理のうちに見出す他なくなり、その矛盾によって空転する。システム従順的な学生たちがトルストイ問題に答えを用意できるだろうか。学生たちはニヒルから逃れえない。文明の進歩が幸福を増長しえないアポリアである。
先日挙げた例を丸暗記として一蹴したが、異常を踏まえて量ではなく質的な違いに着目してほしい(そうでなければ、いかなる媒体を通じて形成された言説が固定的でクローズドで丸暗記的なクイズに陥る)。
まさに特殊例の一人としてスライドしたTakaがイクイバレントな態度となるのはわかる。ただ、現状のシステムを前提として擁護する新井は、彼の基本スタンスとも矛盾しているようにも思うが、自身のうちにどのように両立しているのかが気になる。