おじい(ばあ)ちゃん扱いしない
子どものころ大人から子ども扱いされるのがいやだった。子ども扱いされているのが目に見えてわかって、バカにされているような気がした。だから逆によそのお子さんに対してどう接すればいいかわからず、いまだに子どもは苦手だ。
子どもを必要以上に子ども扱いしないのと同じように、高齢者に対しても、高齢者を十把一絡げにして(鷹揚に)コミュニケーションすることはやめて、ひとによってはそれなりの対応をしようと決心したできごとがあった。
先だって通勤途中の朝(朝といっても10時前後だから激混みアワーは終わっている)、駅のなかを改札口目指して歩いていたら、すれ違いざまに70代くらいの男性から「○○線はこっち?」と尋ねられた。
そう訊かれた瞬間に頭のなかでいろいろな考えが出てきて即答できなかった。
その男性の体が行こうとしている方向はたしかにご希望の路線にはたどり着くけれども、急な階段が多くてちょっと大変だろう。平坦な道を行こうと思えばいったん改札を出なければいけないし、ちょっと距離がある。それに、改札を出るとなれば、きっぷの件で戸惑うかもしれない。
東京オリンピックを目指してずっと行われていた改装工事も、本来ならオリンピックが開かれているであろう日を大幅に過ぎて工事が終わった(つまりつい最近)。
しょせんはもともとの構造をほぼくずさない工事だったようで、急勾配の階段はそのまま、そこにこそあってしかるべきエスカレーターもエレベーターも取り付けられていない。長々と工事していたわりには、ただ単に壁紙を張り替えただけという印象しかない。
というようなことを1秒くらいの間考えていたので、その男性の問いかけに対する瞬発力が失われてしまった。
その男性は、よく言えば頭の回転が早いのか、悪く言えば待てないのだろうか、わたしの逡巡を思いっきり無視して「わかんない?」とかぶせてきた。わたしは自分のことをわりに頭の回転がいいほうだと自負していたけど、どうやらその点ではそのじいさん、いや男性に負けたらしい。
いつもならわたしはそこでできる限りきちんと説明をする。こっちからも行けますけど、階段を登ったり降りたりしないといけないんですよ、少し遠回りになるけどそこの改札を出て右にまっすぐ歩いていけば階段なしに行けます、と。
階段があるから「大変ですよ」とは言わずに、あくまでも階段があるかないかの事実だけを言う。大変なのかどうかは本人にしかわからないから。トライアスロンじいさんとかだったら失礼でしょ。ちなみにわたしは運動のため、その急勾配の階段を毎日上り下りしている。
さて、これだけの考えを巡らせる自分ってすごく偉いんだけど、そんなことも気づかずにわかんねえのか的に畳み込まれてきた(ように感じた)瞬間、わたしのなかで「けっ」というか「ちっ」というか、そんな思いがに噴出した。そしてわたしは静かにかつ冷たく「そっちなら行けますよ」と言ってとっとと再び歩き出した。彼がその後どうしたのかは知らない。
高齢になると、肛門括約筋と同様に言動をもゆるんでしまうってことは理解すべきだろうと今までは思っていた。「ちょっとすみません」程度の前置きすらすっ飛ばして、自分が訊きたいことがブワーッと先に出てしまうのも大目に見てあげなければいけないのだと。
だけど、なんでもかんでも歳だからしょうがないとひとくくりにしてしまうのは、その年齢層のそうじゃないひとたちに対して失礼なんじゃないかと思い始めた。目上、目下にかかわらず、ある程度の節度をもってコミュニケーションできるひともいるのだから。
それができるかできないかは、それまでどういうコミュニケーションのとり方、大げさに言えばどういう生き方をしてきたかに左右されるのかもしれない。高齢になってふるまいがナチュラルになってしまったときに、自分のどういう部分が前面に出てくるのかは、そこに至る今までの自分次第なんだろうな。
だから、わたしも今のうちからそこそこの節度(節度ってなんだ?)をもったふるまいをしてそれを癖付けておかないとへんなおばあさんになっちゃうから、今からビクビクしながらヘコヘコしている。
ひとつ冒頭の男性の心情をくみとるとすれば、彼も居心地の悪さを無意識に感じていたのかもしれない。はやく答えをもらって解決して、はやく立ち去りたかったから、「わかんない?」と言ってきたのかもね。おしまい。