変わりたい
「社会が変わってしまう」発言が物議を醸しているが(総理はエゴサとかなさらないのかしら)、変わることも変わらないことも文脈によって善いこととされたり悪いこととされたりする。
伝統的ななにかは、その変わらなさが善いこととして称賛され、また守るべきだという主張も一部から出てくる。
変わることが善なのは、たとえばDXを推進させようとする場面とか、「新しい生活様式」とやらが推奨される場面(その割には在宅勤務をなくそうとするなど元へ戻そうとする圧力が最近強くない?)などに多いように見える。
個人の変わる/変わらないはどうなんだろう。世間の流れや風潮などから切り離して、あくまでそのひと一個人としての変わる/変わらないは善いことなのかそうじゃないのか。
学生のときの同級生とたまに会うと楽しいは楽しいんだけど、昔話が多くなりがちなのが少し気になる。何回も話した当時のエピソードを面白おかしく話して盛り上がるのはあんまり趣味じゃない。お年寄りがいつまでも昔の話してるのと似てる。
また、同級生たちのなかでこちらに対する情報がアップデートされていないから、わたしがもうとっくにやめたことなどについて、いつまでたっても聞いてきたりする。もうそれは終わってるんだってば! と少しもどかしい。
親から見て子どもはいつまでも子どもなように、同級生から見てわたしはいつまでもあの頃のわたしなのかもしれない。
また、劇的に変わったひとのことを、「あいつは変わってしまった」とか言う。あたりまえじゃん、あれから何十年たってるんだよ。
ここ数年、変化しないといけないという焦燥感に駆られるようになった。一年があっという間にすぎるのと同じように、ぼーっとしてたら世界は秒で変わってしまい、自分だけが生きたアンモナイトになってしまうのが怖い。
若いときも変わりたいという思いはあったけど、そこには違う自分になるといったことが強かった。
世界の変化にはあまり興味はなく、自分にしか目が向いてなかったんだろう。自分にない能力を獲得しようとし、極端に言えば別の人間になろうとしていた気がする。
顔はかなりハードな整形をすれば別の人間の顔になれるけど、中身はそう簡単にはいかない。その素質がまったくないとか、自分の持ち味とは真反対のことをするとか、そういうハードルの高いことに挑戦しても飛び越えられるわけでもなく、結局1ミリも変わることはできなかった。
無理ゲーに時間とエネルギーを使うことがもったいないし無駄なことが遅まきながらわかった。
そういうドラスティックな変化を狙うのではなくて、日々生きている中で自分の中にあるなにかを、ほんのコンマ数%でもいいから変えたほうが簡単だし1ミリくらいは変わることができる。
わたしは気を抜いていれば容易に現状維持バイアスに陥ってしまう。それに気づくようにふらーっとそっちに行ってしまう自分の腕を引っ張って戻すようにして(そもそも気づくのにけっこう重いものを持ち上げるような力がいるんだが)現状維持から抜け出すようにしている。できる限り。
でもそれをやり始めるのが少し遅かったかなと思う。
育った環境における大人からの影響ってけっこう根深いので、それに早く気づいていれば、もっと若いうちからいろいろ変えられたかもしれない。
日々の生活の細かいところまでその影響ははびこっていて、たとえばなんでも手作りがいいという信念をもつ親のもとに育てば、子どもは後々までそれを信じ続け、かたくなに手作りにこだわり続けたりそうじゃない自分を責めたりして疲弊したり、加えてそうじゃないひとをけなしたりすることもある。
そういった大人たちからの一方的な考えが完全に内面化されてしまい、自分の考えだと思い込んでしまう。考え方を無意識に踏襲し、疑問にも思わず変えようとするところまで至ることができない。
だから最近は家族(いないけど)や他人、メディアの言うことも、また多数派少数派にかかわらず世間の意見など、聞くけど初動段階では信じない。信じないというと強すぎかな、賛成も反対もしないといったほうがいいか。
他人やメディアに影響されてそれが自分の考えだと思い込み、自分はちゃんと意見をもっていると勘違いしてしまうのは恥ずかしい。それは楽だし責任ないしでもちゃんと考えているように見えるけど、ただ単に流されているだけだ。流されていれば楽だけど。
現状維持に気づく筋肉と流されていることに気づく筋肉って同じな気がする。引き続きそこらへんの筋肉をトレーニングして頑固ババアに歯止めをかけないとね。
少なくとも個人にかんしては変わってしまっても困らない、変わらないことのほうが怖い。