お願いだから「〜ない」って言わせてください
わたしの何がそうさせるのかわからないけど、「できない」「わからない」「言いたくない」と言わせてくれないシチュエーションが多い。
いや、「〜ない」って言いたかったら言えばいいやんって思うでしょう。そのとおりなんだけど。
「なーんだ」とか、意地悪だとか思われたくないから「〜ない」って言えないときがある。これは自分を守りたいとき。
または、相手の期待を裏切りたくないとか、話が終わっちゃうのを避けようとして「〜ない」って言えないときもある。これは相手にいらん気遣いをしているとき(とはいえ、この場合の気遣いも結局は自分を守るためなんだけど)。
わたしにはとくべつに好きな作家とか俳優とか映画とか食べ物などはない。おにぎりも好きだけど、お蕎麦も好き。最期の晩餐に何が食べたいかなんて決められない。
恋愛欲求がひとかけらもない今はもう関係ないけど、好みの異性についてもとくに注文はなかった。
「◯◯なひとが好き」とか「絶対につきあいたくないのは◯◯なひと」ってひと言で言えるひとってすごいなあと思っていた。潔いのね。
わたしなんて欲張りだから、そんなの考え始めたらリストが膨大になりキリがなくなってしまう。
そんなリストにぴったりマッチするひとがいるとも思えないし、自分でこうと決めていても現実はそうならないことも多々あるだろうと思っていたので、好みのタイプについて考えるのをやめた。
わたしはなにごとにおいても突き詰めるタイプではない。あってもいいこだわりを持ち合わせていない。
たいして広くはないのにすべてが浅い。継続性がないから深くなりようがない。オタクとは真反対に位置している。
あらゆるものごとをいい加減な気持ちで流しているから、好みの異性のみならず、これがいちばん好き!っていうのが見つけられない。「いちばん」って言えるところまで探っていないのだ。
だから、いちばん好きな◯◯は何かなどという質問にはとても困る。
本を常に携帯しているからわたしのことを読書家だと思うのか、あるとき好きな作家は誰かと訊かれた。相手はわたしの口からどんな名前が出てくるのかきらきらした目で待っている。
でも、すみません。好き!って言い切れるほどの作家はいないの。村上春樹の作品はほぼすべて読んでいる(はず)けれど、ハルキストと言うには及ばない。そこまで心酔していないし。ただ、読みやすいし、なんか面白いなと思うだけで。
でも、ここで好きな作家はいないなどと答えたら話が終わってしまう。話を終わらせる勇気がなかったので、一冊しか読んでいない作家をあげるよりも、とりあえず村上春樹と答えた方が無難だからそのように返答した。
相手も同じだったらしく、うれしそうにしている。で、今度は彼の作品の中で何が好きかなどと訊いてくる。もう勘弁しほしいなあと思う。ぼんやり読者のわたしは、そんな問いに急には答えられないんだよ。
意を決して「いや、とくには……」などとお茶を濁すと、「いや、あるでしょ!」と食い下がってくる。
めんどくさいなと思いつつ、記憶に新しい読んだばかりの最新刊の作品を口にすると、「いやー、僕は村上作品の中でも◯◯が好きで……」と始まったので、ほっとした。その作品のどこがよかったかなんて訊かれなくてよかった。結局相手はハルキストで、いかに彼がすばらしいかを語りたかっただけらしい。
わたしはこうしてときどき文章を書いたり、写真を撮ったりしているけれど、「どうやったら書けるの」「どうやったらそういう写真が撮れるの」と訊かれることも多い。
これらについてもぼんやり書いたり、ぼんやり撮ったりしているから、うまく答えられない。ましてや、そんなふうにひと言の答えを求められているようなシチュエーションではなおさら説明に困る。
だから「わからない」とか「ひと言じゃ言えない」と言うと、件のハルキストのように食い下がられる。
「じゃあこの文章直してみて」とか「あなただったらこれをどう撮る?」とか。困る。もう解放してくださいよと思う。
自分のやっていることを突き詰めているひとは、そこにきちんとメソッドやら法則やら意味やらを見出しているから、訊かれたことにちゃんと答えられる。
昔、仕事の整理法みたいな本を立ち読みしたことがあって、そこに書かれているやり方がわたしがやっていることとほぼ同じだった。
自分では当たり前だと思っていたからひとに教えてあげることも、ましてや本になるようなことだなんて思ってもみなかったからびっくりした。
どうしてそんなに仕事を整理してできるんですかと問われたら、わたしは「わかんない。なんとなくやっちゃってるから」と答え、一方その本の著者は自分のやっていることを説明可能なんだろう。
自分のやっていることを有効な戦力として使えるか使えないか、自分には大したことはできないと思っているかいないか。その差は、説明可能なところにまで落とし込んでいるかどうかというところにあるんだろう。
片付けにしたって、コミュニケーションにしたって、営業にしたって、その昔はたかが片付けだとか、人間関係には厄介がつきものだからしかたがないだとか、営業は根性だとか、そういうふうにとらえられていた時代があったと思う。そういうものって結構多いと思う。
でも、それらをうまくやっているひとたちが、それらをきちんと説明可能なものにしていってくれたおかげで、家の中は整理されたし、(100%うまくはいかないまでも)人間関係についての意識が変わるひとが増えたし、少なくとも根性だけで営業するひとが減ったんじゃないだろうか。
できない、わからない、言いたくないことを無理してまでひっくり返さなくてもいいんだけど、自分の中にある「〜ない」ではないことに対して、どうしてこれができていて、わかっていて、説明することができるんだろうってことをもうちょっと考えてもいいのかもね。