それをやっていて幸せか?
長編で、それほど暗い内容でなく、かつ読みやすそうな小説を読みたくて、地元の図書館に行った。
図書館によっては発売時の帯を表2に貼り付けてくれているところがあり、それだとだいたいどんな内容なのか検討がつくのだけど、ほとんどの図書館はそんなことはしない。わたしの住む区内では1軒の図書館しかそれをしていない(なんでそこだけそうしているのか謎だけど)。
だから、タイトルと作家だけで内容を想像するしかなく、それで選んだ本は、ここ数回ハズレ気味だ。
いや、決して内容がハズレということではなく、わたしが求める内容と一致しないという意味で。
先だって借りてきた本は、DV&不貞の話だったし、今日借りてきた本はいじめ&引きこもりだ。タイトルからは想像できんよ〜。
肉体的にお疲れ気味の身には、少々きびしい。池井戸潤とか奥田英朗のようなテンポのいい本を読みたかったんだけど。
笑える映画を観たくて、「ブラックヒット」なる謳い文句の『スターリンの葬送狂騒曲』を観たけど、あながちコメディとも言い切れない。これもけっこう重かった。
自分のリアルな世界では、短期間のうちに人間の卑怯な部分を見せつけられた。
人間のいやな面はたびたび目にするけれど、久々に高温多湿なじめじめした陰険さに触れた。
今年のお盆はそんなんばっかり。そんなときに考えたこと。
DVやらいじめやら虐殺やら権力争いやらをしているひとは、自分は卑劣ではないと思っているはずだ。
自分が卑劣だと「はっきり」と自覚しながら行為する人間はいない。気が狂っていない限り、「うっすら」とは自分の卑劣さ自覚しているはずだ。
でも、それを「はっきり」と自覚するには、つまり自分が卑劣な人間だと認めるには勇気が必要だ。だから、自分の行為を正当化する理由をあちらこちらから持ってきて安心する。
正当化する材料を集めている時点で人間は根本的に善良なのだと思う。たとえ、ものすごく残虐であっても。だって正当化しなければ、自分のしていることに耐えられないのだから。
人間は、程度の差こそあれ善良さを持ち合わせている。だけど、外部的、内部的を問わず何らかの要因でその善良さのいくばくかをどこかに置いてきてしまう。
でも、どんなひとでも、自分でも気がつかないくらい少量かもしれないけど、ふところに善良さを抱え持ってきている。
どんなにいいひとそうに見えても、多少の意地悪をしたり、不正直でいたりしたことがあるだろう。もちろんわたしにだって卑怯なところは人並み以上にある。
卑怯なひとは、自分のことを悪人であるとは認めたくない。だから相手が、環境が、状況が、命令が……などと他のもののせいにする。
そうしてまるで自分が被害者のように思い込む。こんな人間になったのは、あいつらのせいだと。
それをやって自分が幸せなのかどうか、自分に問いかけたい。
だれかをいじめて幸せか。
他人を恨んで幸せか。
困っているひとを放っておいて幸せか。
ひとを貶めて幸せか。
それで幸せだと思うなら、人類に数パーセントはいるであろう筋金入りの悪人なんだろう。
だけど、おおかたの人間は善良なんだから、それをして幸せだとは言い切れないはずだ。
なんて偉そうに書いているけれど、今のわたしには、自分の幸せを優先する勇気がまだない。
囚人のジレンマ的な状況に置かれたとき、裏切りをしないとは言い切れない。追い詰められた状況では、お互いを信じることがいちばん合理的だとはたぶん思えない。
わたしのことを気に入ってくれている上司がいたとして、その上司が同僚を理不尽に罵倒していても、わたしは同僚をかばわないかもしれない。今度は自分が罵倒の対象になってしまうかもしれないから。
でも、そうして不条理な状況を放っておいたら、言いようのないもやもやが自分の中に居座ることになるだろう。なぜならそれをやって幸せじゃないから。
今は卑怯な自分だけど、繰り返し繰り返し「それをやって自分は幸せか?」と問いかけて、その筋力を鍛えたい。そういう筋肉は人類に備わっていると思う。
てなことを、当ての外れた小説、意外に重かったコメディ映画、そしてリアルな体験を通して思ったお盆明けでございました。